第五章 彼のいない狂騒の夜 ~狩るか狩られるか~




 クリオからは誰も中を覗き込まないよう見張っていてと頼まれたが、実際問題として、アマユールやカルデロン夫人の勘気に触れるのを承知で、あの高い石壁をよじ登ろうと考える者はいないだろう。そもそもの話、近衛を目指すような人間は、そういう不埒なことは考えない。

 だからユーリックは、見張りのほうはそこそこに、食事作りに注力しようと考えていた。しかし、焚き火の前で何やら隊長たちが深刻そうな顔をしている。

「どうかしましたか?」

「ああ……昼間、襲撃を受けた時に馬を何頭か失っただろう?」

「はい」

「あらためて確認してみたんだが、逃げた馬に積んでいた荷物がね……」

「何か重要なものでも?」

「食料だよ」

 ロッコ隊長は大仰に嘆息して首を振った。

「――もちろん、数頭の馬に一行の食料のすべてを運ばせていたわけではないんだが、干した鹿肉やにしんを積んだ馬に逃げられてね。このままだと、あしたからはジャガイモやニンジンだけを食べていかなければならなくなる」

「それは困りましたね」

 近衛の兵士や生徒たちだけならそれでもいいだろう。だが、一行はアマユールを連れている。大事に送り届けなければならない花嫁に、この先何日も粗食に耐えろというのはさすがにまずい。それに、今は一行の中に怪我人もいる。彼らには最優先で栄養のある食事をあたえなければならない。

 ユーリックは枝葉を透かして西から射し込む茜色の陽射しに目を細めた。

「……日没までまだ少しですが猶予があります。今からでも狩りに出ては?」

「まさにそのことを考えていたんだが、これまた間の悪いことに、隊の中でもっとも弓が得意な者が昼間の襲撃で負傷してしまっていてね。それでどうしたものかと話し合っていたところなんだ」

「そうですか」

 顎に手を当て、ユーリックが考え込んだのはほんの数瞬だった。

「――では私が行ってきます」

「きみが? きみも弓が使えるのか?」

「近衛のかたがたとくらべられるほど得意なわけではありません。ですが、そもそも私は狩りに弓は使いませんので」

 足元にあった小さな石を拾い上げたユーリックは、少し離れたところにある木に向かってそれを投げつけた。直後、びしりと乾いた音がして、硬い樫の木肌に石がめり込む。ユーリックが炎の矢を飛ばすような魔法を滅多に使わないのは、魔法に頼るまでもなく、そのへんにいくらでもある小石を強力な飛び道具として使えるからだった。

 木の幹にめり込んだ礫を呆然と見つめているロッコ隊長に、ユーリックはいった。

「本職の狩人とまではいかなくとも、子供の頃からこれでよく山鳩などを獲ってきましたので、多少なりともお役には立てるのではないかと」

「そ、それは助かる……狩りに慣れていないからといって、迂闊に人手を割いてしまってはここの守りも薄くなってしまうし、難儀していたところなんだ。きみに任せてもいいかな?」

「はい。それではクリオドゥーナさまにひと言お断りしてから出ようと思います」

 ユーリックは露天風呂を楽しむ少女たちのもとへ足早に向かうと、壁越しにクリオに声をかけた。

「お嬢さま」

「えー? ユーくん? なぁにー?」

「実は夕食の品数を増やすために狩りに出ることになりました。その前にお伝えしておきたいことがあるのですが、少しお時間よろしいでしょうか?」

「ちょ、ちょっと待って――」

 壁の向こうからばちゃばちゃと派手な水音がする。ユーリックが首をかしげていると、壁の上にひょこっとクリオが顔を覗かせた。

「近くに誰かいる?」

「……おりませんが」

「じゃ、そっち行くね」

 そういうなり、身体に大きなタオルを一枚巻きつけただけのクリオが降ってきた。

「……わざわざ声をかけてきたってことは、何かほかの人には聞かせたくない話があるんでしょ?」

「お察しの通りです」

 熱く火照ったクリオの身体をやわらかく受け止めたユーリックは、声を低く落とし、

「……万が一、私が不在の間に何者かが襲撃してきた場合は、何よりもまずお嬢さまご自身の身の安全を第一にお考えください」

「それは判ってるけど、でも――」

「とにかくお聞きください」

 性格上、クリオはアマユールを見捨ててはいけないだろう。クリオが口にしかけたのはそういうことに違いない。

「――お嬢さまの実力なら、アマユールさまだけを連れて落ち延びることはそう難しくはないはずです。ですから、可能ならもちろんそうなさってください。ただし、その際はほかのかたがたのことはお忘れください」

「それってつまり……レッチーとか先生とかのことも?」

 クリオが身体をこわばらせたのが判った。

「レティツィアさまたちであればさほど心配はないはずですが……極論、そういう決断も必要になるでしょう。あれもこれもとすべてを守ろうとして、すべてを失う可能性もなくはございません。何を守らなければならないのか、その時点での優先順位をお忘れにならぬよう」

「……それだけ?」

 クリオが上目使いにユーリックを見つめる。濡れ髪なのに加えてタオル一枚という今のクリオの姿に、勃然と湧き上がってくるものを感じないわけではなかったが、ユーリックは努めて表情を変えることなくうなずいた。

「しいて申し上げるなら、湯冷めなさらぬようお気をつけくださいということと、もうひとつ――アマユールさまをお救いするとお決めになったのであれば、最後までやり遂げることです。でなければ、お嬢さまにとってもアマユールさまにとっても、大きな後悔を残すことになるでしょう」

 クリオが途中で見捨てたら、たとえ結果的に助かったとしても、親しくなったあとだけになおさらのこと、アマユールは裏切られたと感じて深く傷つくだろう。それにクリオのほうも、アマユールを裏切ってしまったという罪悪感をずっと引きずっていくことになる。クリオにそういう重荷を背負わせたくはなかった。

「――それでは行ってまいります」

「気をつけてね」

 クリオの身体を壁の上まで投げ上げ、ユーリックは小走りで移動を開始した。

 ふつうの狩人なら、動きの速い獲物を追うのに馬が必要になるかもしれないが、ユーリックには必要ない。むしろ障害物の多い森の中なら、小回りが利くぶん、馬よりも速く移動できる。途中、小さな石や木の実を拾ってポケットに入れながら、ユーリックは獲物を捜した。

「――――」

 不注意な兎を二羽、山鳩を三羽ほど仕留めたところで、ユーリックはかすかな違和感を覚えた。

 狩りの獲物になるような獣の姿が少ない。この森は王室の狩り場に選ばれるほど獣の数も種類も豊富であるはずなのに、それこそ小動物や小鳥くらいしか見当たらないのである。

「……おれが気配を消せていないから獣のほうで警戒して姿を見せないのか、それとも昼と夜が入れ替わる今の時間帯が狩りに向かないのか――」

 狩りの経験が少ないユーリックには何とも判断がつかない。

 仕留めた小さな獲物たちを細いロープでくくって腰からぶら下げ、ユーリックはさらに先へ進むことにした。日没までおそらくあと三〇分もないが、もう少しだけ粘れば、肉入りのシチューくらいは用意できるだろう。

 そう思った瞬間、ユーリックは右手を眼前にかざした。

「!」

 かきん! と硬い音がして、骨で作られたやじりが砕け散る。自分が弓矢で狙撃されたことを知ったユーリックは、矢の飛んできた方向から身を隠すように近くの木の陰へ飛び込んだ。

「……いつ接近された? 足音はしなかったぞ?」

 運よく矢羽が風を切るかすかな音に気づいて急所をかばえたからよかったようなものの、もしそうでなかったら――ユーリックの腕が生身であったら、今ごろはこめかみに矢を突き立てられて死んでいたかもしれない。

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