42
「ここにいたのか、玲奈……」
駆け出して行った玲奈は、公園の真ん中で佇んでいた。仁が茜と最後に会った公園で。
「なんでよ……」
裸足のまま飛び出していった玲奈の足は、傷だらけだった。擦り切れ、血も出ている。痛いだろう。それでも、玲奈はそれ以上の痛みに肩を震わせていた。
「……なんで、諦めないのよ……」
泣きながら、玲奈はふり返った。そして、見る。
靴も履かずに急いで自分を追いかけてきた、馬鹿の顔を。美しい顔に隈を浮かべて、整えられていたはずの髪もぼさぼさで。心なしか顔色も悪い。
明らかに何日も寝ていないのが見て取れた。
あたりまえだ。仁は病院にいる間、ずっと遥とひよりに付き添っていた。あの二人が疲れて眠る間も、祖父と今後のことについて話し合っていた。それもないときは、ずっと茜のそばで手を握っていた。
そんな仁の姿を、玲奈は、自分を守るために抱きしめてくれる由奈の腕の中から見続けていた。
そして、茜が死んだ後は。ずっと休むことなく姉妹のために奔走していた。すべては茜との約束を果たすために――姉妹を幸せにするために。
「おまえが、なんて言おうと――」
一歩、仁が踏み出す。
「何度、拒絶されようと――」
玲奈は逃げない。もう足が動かないから。もう、疲れてしまったんだ。だから、誰かの胸で休みたい――
「俺は絶対に――おまえの幸せを諦めない」
そして、仁は玲奈の手を掴んだ。決して放さないように、強く。かつて自分がそうしてもらったように。
「なんで、そこまでするのよ……お母さんとの約束なら、別に……」
嫌々と、首を振る玲奈。それでも、その手は仁の手を放そうとはしなかった。
だから、仁はその目をまっすぐ見ながら――茜と同じように言う。
「おまえを――愛してるからだ」
そう言って、仁は玲奈を抱きしめた。
自分の背中に回された腕から、抱き止めてくれる胸から伝わる温もりが、玲奈の心を溶かしていく。
「うそよ……私たち、このまえ会ったばかりじゃない」
「嘘じゃない。時間なんて関係ない」
「私のことなんて、何も知らないくせに」
「知ってるさ。おまえは高崎玲奈。高崎茜の娘で、四人姉妹の次女。いっつも我慢して、遠慮がちで、自分なんかって俯いてる。優しすぎるから、人よりずっと傷つきやすい。口は悪くても、その実誰より優しい子だ。誰かのために泣ける子だ。誰かを傷つけないために、自分の幸せだって諦められる子だ。心細くても、姉妹のためなら、一人で平気だって言い張れる子だ。
――そして、最近はネイルアートに興味がある」
そう言って、仁は懐からあるものを取り出した。
それは、マニキュアだった。
お高いブランドの高級品。ショーウィンドウの向こうで、あるいはテレビや動画の中で、玲奈の心を魅了した、控えめだけど美しい、おしゃれな赤色。
お母さんに気を使わせたくなくて、密かに胸に秘めていた憧れ。それを、この男は初対面で看破した。
約束したんだった。次に会う時は、ソレを持って来てくれるって。
仁はそれを覚えていた。そして、律儀に守ろうとした。こんなふらふらの体で。裸足で追いかけてまで。
「もう一回、約束だ。今度教えてやるよ、ネイルアート。俺、けっこう得意なんだぜ? 女の子の爪をかわいくするの」
そう言って、仁は玲奈の手にマニキュアを握らせた。そのわずかばかりの重みが、玲奈にとっては、たまらなく――っ
「……私、可愛くないよ? 憎まれ口ばっかり言っちゃう」
「女の子が怒った時に笑って受け止められるのが、男の度量ってもんだ」
「……遥姉みたいに、頑張り屋じゃないよ? すぐ楽なほうに逃げる」
「頑張ってない奴は、泣いたりしない。頑張ってるところが違うだけだ」
「……由奈みたいに、歌もうまくないよ? お勉強も、運動も、由奈には勝てなくて」
「由奈とおまえは違う。おまえは、おまえのしたいことをすればいいんだ」
「……ひよりみたいに、素直に、明るく笑えないよ?」
「俺からしてみれば、十分素直だよ。まっすぐで泣き虫な、普通の――素敵な女の子だ」
仁の指が、優しく玲奈の涙を拭う。けれど、後から後から涙が湧いてくるから、拭っても拭っても止まらない。
「私は、あなたを……不幸にするだけなのに……っ!」
「違う。それだけは、絶対に違う」
思わずハッとするほどに真剣な目で、仁は玲奈の言葉を否定した。
「さっきも言おうとしたんだ。だから、もう一度言う――俺は絶対に不幸になんてならない」
「……そんな、何の根拠もないくせに……」
「根拠ならある。言ったろ? おまえを愛してるって」
歯の浮くような、そんな文句を。仁は当たり前のように口にする。
「俺は玲奈を。遥を、由奈を、ひよりを――先生を愛してる。だから、おまえたちといる限り、俺は決して不幸になんてならない」
「……え?」
「不幸も、苦労も、その人のためならなんてことない。その人が幸せでいてくれることが、自分の幸せになる。誰かの幸せを願う――そんな気持ちを、愛っていうんだ」
一瞬、仁は玲奈ではなく、どこか遠くを見つめた。
それは茜の面影なのだろう。玲奈には不思議と一目でわかった。
「だから、先生は幸せだったんだよ。泣いていても、苦しくても、死ぬ思いをしても――それでも、おまえたちと一緒にいて幸せだったんだ。それだけは絶対に断言できる。俺が好きになった人は、そういう人だから」
だからさ、と。仁は玲奈の手を改めて握る。
「他でもない、俺が幸せになるために――玲奈、おまえを幸せにさせてほしい。他の誰でもなく、俺の手で」
そう言って、仁は笑う。
玲奈の顔は、もう涙でぐしゃぐしゃだった。
「…………いなく、なるくせに……っ」
「いなくなったりしない。絶対だ」
「……しんじない」
「どうすれば信じてくれる?」
「……やくそく、して」
そう言って、玲奈は小指を立てた。子どもらしいそのやり方に、仁は少し吹き出しそうになって。大人しく小指をさし出した。
長く大きい指と、短く小さい指が、絡まり合う。
「約束して。私から――みんなから離れないって」
「約束する。俺は、おまえたちみんなを愛して、絶対に一生幸せにしてみせる。死が俺たちを分かつまで――死んだ後もずっと。俺はおまえたちと共にある。――だって、俺は今日から、おまえたちのパパになるんだからな」
家族はいっしょにいないとダメだろう? とそう言って仁は笑った。
もう限界だった。一人で立っているのに疲れてしまった少女は、そのまま「父」の胸に飛びこんで――泣いた。
泣いて、泣き疲れて、涙が枯れるまで泣き続けて――そして、全ての気持ちを吐き出した。
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