37
翌日。仁は学校に登校した。
校内は夏休み明けの浮ついた空気に包まれていたが、仁の姿を見かけるとみな静まり返った。仁が警官に重傷を負わせて少年院にぶち込まれたという噂は完全に広まっているらしい。だからどうということもないけれど。
奇異の視線が、恐怖の視線に変わっただけのこと。何も気にせず、仁は補習室に足を運んだ。
「あっ、いらっしゃい。仁君」
「ちわっす、先生」
朗らかに笑う茜は、一見いつも通り元気だ。けれど、いい加減付き合いの長い仁にはわかる。茜は明らかに元気がない。
「俺のこと気ぃ使ってんなら、そりゃ必要ないっすよ」
「……ははっ。バレちゃうか、やっぱ」
「先生顔に出すぎなんで」
空元気で解説していた茜は、いったん手を停めると、力なく肩を落とした。
「ごめんね。あれだけ大口叩いたのに、これじゃあ仁君……」
「俺のやったことのツケです。俺が何とかします。大体、生徒たちの心を変えるなんてふつうにムリでしょ。先生はエスパーじゃないんだから」
「むっ、そんなことないよ。みんなだって、ちゃんと話せばわかってくれるもの」
「……ああ、それもそうっすね」
一転。茜の語る理想論を肯定する仁。
普段なら必ず否定してくるだけに、茜は不思議そうに首を傾げていた。
「昔、先生言ってましたよね。高校で、何か一つでもいいから。ああ、学校行っててよかったって思えることが、きっと見つかるって」
「仁君、覚えて……」
「あれ、見つかりましたよ」
思いもよらなかったその言葉に、茜は大きく目を見張る。
それを見て、仁はそっと微笑んだ。
「本当はもう、ずっと前から見つかってた。見ないふりをしていただけで、俺は手に入れてたんです」
いつも仏頂面だった仁が、初めて笑っている。その笑顔が、嬉しくて。茜は、口元を抑えたまま、ずっと涙を流していた。
「先生。あなたとこうしていっしょに補習をやってる時間が、俺は楽しかったんです。
ありがとうございます。散々気にかけてくれて。見捨てないでくれて。
「こんな俺を、信じてくれて――ありがとうございました」
最後に、仁は笑っていた。
「先生。あなたは――俺の誰より尊敬する先生です」
だから、さようなら。
◆
放課後、仁は大家の男に伴われて、商店街の奥まった路地を歩いていた。
「いいか。失礼すんじゃねえぞ」
「大丈夫っす。俺、そういうの得意なんで」
都会の喧騒のただ中。けれど、人でごった返す大通りも、一本通りを外れればたちまち姿を変える。煌びやかな電光掲示板は姿を消し、薄い電灯だけが照らす闇の路地。
もう一本も通りを外れれば。そこはもう、はぐれ者たちの領域だ。いかがわしい風俗街のただ中を歩き続け――
「あっ、ほら。兄さんだ」
そして、見つけた。
ほんの一〇メートル先に、男が立っていた。黒い上等なスーツを着込み、手にはごてごてとした指輪を何本もつけている。よく見れば、小指が一本なかった。
傍らに、露出の多い恰好の女を三人ほど侍らせて――ヤクザの男がそこに立っていた。
「おう、どうしたコウダイ? 俺に合わせたいやつがいるんだって?」
「へえ、兄貴。昨日会ったやつなんですが、これが中々見どころのあるやつで。警官九人を病院送りにしたっていうんで」
「ほぅ、そいつは……」
じろり、と。値踏みするような視線が仁の全身を這い回った。仁がよく知っている目だ。
目の前のガキはどれだけのことができるだろう。どれだけの利益を俺にもたらして——死んでくれるだろう? そういう、人を利用することしかできないクズの目だ。
「こいつがこれから仕事するにあたって、どうしても兄貴に挨拶したいっていうんで。連れて来たんですよ」
「ほう、中々義理堅いやつじゃねえか」
「まったくですよ。……ほら、おまえ。挨拶しろ」
ああ、どれほどコイツのことを想っただろう。どんな恋人よりも、想っていた。
今どこで何をしているだろう。「幸せ」だろうか。どんな気持ちで息をしているんだろう?
そんなことを、ずうぅぅっと考えていた。
「……ずっと、会える日を楽しみにしてました」
「あん?」
そいつは、「幸せ」になっているようだった。七年前より、ずっと見なりがよくなっていた。さぞ儲かったんだろう。兄貴だなんて呼ばせて、女を侍らせて。さぞ気分が良いことだろう。満ち足りた人生だったんだろう。
ああ、本当によかった。クズのままでいてくれて。これで改心でもされていたらどうしようかと思っていたけれど。これで心おきなく――こいつを殺せる。
そして、仁は袖の中に隠し持っていたポケットナイフを手にとって――
「――仁君っ‼」
割れるような大声が、薄暗い路地に響いた。あまりの大声に驚いて、その路地にいた全員がそっちを振り向いた。ただ一人、衝撃に固まった仁を除いて。
――ありえない。
仁は動けなかった。
あの人がこんなところにいるはずがない。馬鹿げてる。ここは学校じゃない。あの人が、こんなところに来るはずない。いちゃいけないんだ。あの人は、こんなところにいるべき人じゃない。こんなところにいるのは、俺やコイツみたいなクズだけでいい。
――ああ、だけど。
本当の、本当のことを言うのなら。仁は、自分の意思で、この路地に足を踏み入れたけれど。それでも、本当は。
――こんなところに、来たかったわけじゃなくて、
「仁君っ!」
どんっと、後ろからぶつかってくるものがあった。前につんのめる仁を、後ろから回されたその人の手が抱き留める。
――ああ、なんで。
わかってしまった。その声が、その手が、誰のものなのか。何より、背中から伝わるその温もりは。心細いときに、ずっと、傍にいてくれた……
「せん……せい……」
ようやく、仁が振り向いた。
その視線の先で、茜は怒りながら泣いていた。ボロボロと涙を零しながら、顔を真っ赤にして、眉を吊り上げて。
先生は、不良生徒に怒っていた。
「こんなところでっ……何してるの、ばかっ!」
仁の手を掴んで、がくがくと揺さぶりながら、茜は精一杯の声を張り上げる。学校でも、子どもの前でも、ここまで怒ったことなんてなかった。
「明日も補習あるって言ったじゃないっ⁉ 単位危ないよって、私言ったよっ⁉」
「いやっ、あの、先生……」
「言い訳しないでっ! 進級、いっしょに目指すって約束したでしょ⁉ だったらっ! こんなところで……こんな時間に遊び歩いてないで――さっさと帰って勉強しなさいっ!」
茜の大声は、路地裏中に響きわたって。
深夜に。担当教師から天下の往来で説教を受けた仁は――完全に固まっていた。
「――ぷっ、くははははっ! おいおいコウダイなんだこりゃ? おまえどこの優等生と勘違いしたんだ、おい?」
「いや、兄貴…あの……」
「先生様同伴で俺らの仕事やろうってのか? 面白過ぎる冗談じゃねえか、なあおい⁉」
爆笑するヤクザ男に追従するように、その傍に控える女たちが笑いだして。そして、その笑いは見る見るうちに路地中に広がり、気付けばその路地にいる全員が爆笑していた。
そんななか、数少ない笑っていない人である茜は、グシグシと涙を拭うと、そのままキッとヤクザ男を睨みつけた。その間も、茜は一瞬たりとも仁の手を離そうとはしなかった。
「うちの子は、これから帰って私と勉強します。なので、あなたとはいっしょにいけません。失礼しますっ!」
「おう。俺も保護者同伴のガキなんぞに用はねえよ。なあ、甘えん坊の坊や? いやしかし、傑作だぜおい。おうコウダイっ! 最高のジョークの礼だ。奢ってやるよ」
「へっ、へい!」
そう言ってヤクザ男は笑いながら去っていった。
その背中を、呆けたままいつまでも目で追っていた仁だったが、やがて強引に手を引かれた。
「こっち。来て」
有無を言わせぬ調子で、茜は仁を引っ張っていく。仁も、抵抗しようともしなかった。
そして、無言で歩くことしばらく。誰もいない、深夜の公園で、茜はくるりと振り返った。
「何しようとしてたの?」
いつになく固い表情で詰問する茜に、仁はぼーっとしたまま答える。
「殺そうとした」
わかっていたはずのその言葉に、茜はそれでも、悲しそうに顔を歪めた。
「どうして、そんな――」
「あいつが母さんの仇だ」
茜の表情が、はっとしたものにかわる。
対して、仁は何も変わらない。感情らしいものが何も浮かばない無表情で、仁はぽつりぽつりと語り出す。
「ずっと探してた。あいつをこの手で殺してやりたかった。あいつが幸せになってることが許せなかった。母さんの仇を討ちたかった。そのためにずっとヤクザの使い走りをやってた。今日、ここにあいつが来るってわかったから、チャンスだと思った。殺してやろうと思った」
「……ダメ。だめだよ。そんなのは、ダメ……」
「なんでだよ。ずっとずっとずっと願ってたんだ。俺の夢だったんだ。これ以上の望みはない。他の何と引き合いにしたって、アイツの命のほうが俺には重い。あいつが死んでくれたら、これ以上ないくらいにスッキリするだろうよ。七年分の恨みが晴れるんだ。最高の気分だろうさ。 あいつを殺すことが、俺の幸せなんだよ」
「ダメだよっ! 殺人なんてしちゃったら、本当に戻れなくなっちゃうよ? 前科ついちゃうし、色んなところで上手くいかなくなる。一之瀬君の人生まで、むちゃくちゃになっちゃう」
「どうでもいいんだよ。俺の人生なんて。別にこの先、生きててもたいしたことはねえよ。てめえのクソみてえな人生の使い道くらい、自分で決める。母さんの仇を討てるなら、これ以上に上等な終わりはねえよ……まあ、それも失敗しちまったし――」
もうすべてがどうでもいい。そう思って、仁は力なく笑った。
その手にナイフが握られているのを、茜は初めて気づいた。
そのまま、頸動脈までナイフが運ばれ――切り裂こうとする腕を、茜が必死に押しとどめた。
「ダメ! 絶対にダメ! あなたは幸せにならないといけないの。まだ、幸せになれるんだから!」
必死に腕にしがみつき、全身の力を振り絞って止めようとする茜。その姿を見て、初めて、仁の表情に感情の色が浮かぶ。
「……幸せってなんだよ」
それは、怒りの色だった。力任せに茜を振り払った仁は、怒りのままに怒鳴りつける。
「あんたいつか言ってたよな。子ども生まれて幸せだって。でもな、俺も前に言ったよな⁉ 産まれることを望まれなかった子どもなんていくらでもいる。避妊しくじって、妊娠して、おろす金もねえからそのまま産んで、捨てたら罪になるからしかたなく育てるなんてのはよくあることだ。ネグレクトなんて当然だ、虐待だって不思議じゃない。毎日エサやってるだけでも上等だろ。何せ、子どもなんて最初から邪魔でしかないんだからな!」
地面に倒れ込んだ茜は、何も言わずに仁の叫びを聞いていた。いや、口を挟むこともできなかった。
「子ども育てるのも金かかるよな? 手間だってかかる。子どもにかけてる時間を、親が自由に使えたなら、きっといくらかマシな生活できるぜ。そうだよ。子どもってのは、親の不幸で育つんだ。産まれる瞬間から母親の腹を痛めつけて、金ばかりむしり取って、親の人生を食い潰して。それだけ迷惑かけて何も返さねえクソどもだ。子どもの幸せは、親の不幸だ。いつだって、誰かの幸せは、他の誰かの不幸なんだ」
怒りに声を荒げて、見たこともないほどに取り乱した仁の――その頬には、涙が伝っていた。
――仁は、泣いていた。
「だってそうだろ? 母さんは、俺たちを貧乏から解放するために死んだんだ。おかげで生活もマシになったよ。息子が心置きなく人をぶちのめして、賠償金だって払えるくらい。ろくに興味もねえくせに、無駄に学費はらって高校いけるくらいに。金がないやつは不幸なんだろ? あのころより、金はあるよ。ならきっと、これを幸せっていうんだろ? ――だったら、こんな幸せはいらなかった」
仁が、膝をつく。もう立っていることもできなかった。心の中は、ぐちゃぐちゃで。もう自分でも、何がしたいのかわからない。
死んだほうがマシだって、何度思ったかわからない。もうずっと、そうやって生きてきたんだ。
「俺は、幸せになんてなりたくない。誰かを不幸にしてまで、幸せになりたいなんて思わない」
息をするのも、苦しかった。
美味しいものを食べる度、母さんの顔が浮かんだ。自分のせいで死んだ母さん。すべての幸せは、母さんの犠牲の上に成り立っている。
だからずっと。幸せであることに罪悪感があった。幸せを感じる自分の心が疎ましかった。母さんの人生を食いつぶして、自分だけ幸せになろうとする、浅ましいクソ野郎が。この世で一番、大嫌いだった。
「貧乏でよかった。不幸でよかった。それでも――母さんといっしょにいたかった」
なんで? なんで死んじゃったの、お母さん? お母さんといっしょなら、何も苦しくなかった。本当だ。ひもじい思いも、怖い思いも、不自由な思いも。お母さんに抱きしめられるだけで、ぜんぶどこかに行ってしまった。この世のどんなものよりも。お母さんのことが好きだった。
「――きっと、お母さんも同じことを思ってたんだよ」
優しい、声がした。俯く仁の頭を、誰かの腕が包み込んで。そのまま、頭を引き寄せられて、胸元に抱き寄せられる。
仁は、茜に抱きしめられていた。
「知ってる? 誰も不幸にしない。みんなが幸せになれる方法」
温かい。冬の寒さも、どこかに消えてしまった。暖かな体温が。優しい声が。すべてを、包み込んで――許してくれるようで。
「――愛、だよ」
冷たい心が、溶けていくようだった。
「愛してる人の幸せが、自分の幸せになるの。大変でも、苦しくても。自分が損することでも。それでその人が喜んでくれるなら、それが何より嬉しいの。自分の幸せよりも、相手の幸せを願う気持ち。その気持ちをね、愛っていうの」
ぽんっ、ぽんっ、ぽんっ、と。一定のリズムで、背中を叩かれる。思い出す。それは怖い夢を見た夜に。お母さんがいつもやってくれた――
『大丈夫よ。怖いものは、ぜーんぶ夢。お母さんがいっしょにいるから、大丈夫よ』
『……ぐすっ……本当?』
『もちろん。お母さんは、なにがあっても、仁の味方だからね』
『――お母さんっ』
『おーよしよし…………ずっといっしょにいようね、仁』
どんなに夜遅くても。仁が泣いていたら、お母さんはすぐに飛び起きて、仁を抱きしめてくれた。眠かったろうに。仕事の疲れもあっただろうに。それでも、面倒くさいなんて一度もおくびにも出さずに、傍にいてくれた。
当時の仁は、ただそれが嬉しくて。母さんに抱き着いて、満足していた。
けれど同じくらいに、お母さんも、いつも笑顔だったんだ。二人でいる。それだけで、仁もお母さんも、いつも笑顔だった。
「それぞれの幸せが、お互いの幸せになる。だから誰も不幸になんてならないし、一人の時より何倍も幸せになれる。それが、愛し合うってことなんだよ」
背中をさする手が止まり、かわりに両手が仁の頬を包んだ。そのままゆっくりと顎を持ち上げる。
そうして目に映るのは、満天の星空の下で、どこまでも優しく微笑む、茜の笑顔。優しくて、愛しくて、大好きだった母さんとよく似た――愛しい人。
「仁君がお母さんのことを愛していたように、お母さんも仁君を愛していたの。自分の幸せよりも、仁君に幸せになってほしかったの。それが、お母さんにとっての幸せだったんだよ。だからお願い、仁君。自分の幸せを諦めないで。お母さんのために、あなたのために。お願いだから、幸せになって……ねっ」
茜もまた、泣いていた。
「私に、ダメなんかじゃないって言ってくれたあなたが、自分を嫌ったりしないでよ」
どこまでも不器用で、自分を許せなかった少年が、今度こそちゃんと笑えるように。幸せになってくれるように。茜は、ただただ一生懸命だった。
「…俺は、幸せになっても、いいのかな……?」
震える声で吐き出された、小さな質問。そんなことを訊いてしまうことが、何より悲しかった。
あたりまえの幸せが、この子にとっては、どれほど遠いものだったんだろう。あたりまえを、あたりまえに享受できなかった迷子が、もう二度と道に迷わないように。
溢れる涙を止めようともせず、茜は精一杯の笑顔を浮かべた。
「あたりまえだよ――だってあなたは、幸せになるために生まれてきたんだから」
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