36
宣言通り、茜は何度も面会に来た。
学校ではこんなことがあった。授業ではこんなことをやっている。いつか戻ってきたとき補習でやらなきゃいけないことがたまっている。そんなことをしゃべり続ける間、仁は大人しく聞き続けていた。
教育プログラムでも、仁の成績は優秀だった。生来の要領の良さもあるが、茜の指導によって、他のまともに教育も受けていない面子よりはずっと学力が高かったからだ。
加えて、仁は基本的に職員の言うことにも忠実に従った。別に逆らう理由もないからという消極的な理由だったが、それでも査定においてはプラスに働いたらしい。
茜という教師との強固な信頼関係があるとみなされたこと、特に問題行動も起こさず社交性も問題ないこと、一定以上の能力があると判断されたこと。などの理由から、仁はやらかしたことの重大性から考えれば、異例の短期で出所を果たした。
裏では、茜が何度も職員に掛け合っていたらしい。「自分がしっかり監督して、もう二度と同じような真似はさせません」みたいな。そこに仁が茜に対してひと際従順な態度を取っていたものだから、偉い人もこれなら大丈夫だろと判断したらしい。
かくして、少年院からの帰り道。電車で揺られながら、仁は困っていた。
(これからどうっすかな……)
真っ先に浮かんだのは『先輩』の顔。けどダメだ。警察と派手にやらかして目を付けられている状態でお世話になるのは、迷惑がかかりすぎる。同じ理由で仲間たちもダメだ。
とりあえず直前まで居候させてもらっていた『彼女』に連絡を入れてみたが、ふつうに着拒拒されていた。当たり前だ。警官殴り倒して収容された危険人物と一緒にいたがるものか。幸いにもバイク等の仁の私物は実家に送り返されているらしいから、最低限の生活には困らない。よほど縁を切りたかったのだろう。
しかし、今日の寝床に困っているのは事実。どうしたもんかと思い悩む仁は、ふとあるものを思い出した。
ポケットをごそごそと漁り、それを取り出した。例の、電話番号が書かれた紙きれだった。十中八九ろくな相手じゃないが、寝床ぐらいは融通してくれるだろう。
『私は、あなたの幸せを諦めない』
脳裏に蘇る、茜の言葉。
あれからずっと、仁はわからなくなっていた。幸せ。それを求めることをやめて、何年がたっただろう。惰性で寿命を消費するだけの日々が日常となり、幸せの意味すらわからなくなった。
けれど、その幸せを望む人が表れた。仁が幸せになっても、茜にとって何のメリットもないはずなのに。本人がいらないと言っているのに、馬鹿正直に幸せになれと命令してくる。
これでは押し売りと同じだ、と。仁は辟易していた。
それでも、そんな強引さが心地良いと思ってしまうのは、きっと、仁が茜のことを――
(やめろ。馬鹿なこと考えるな……)
一之瀬仁は、他人を不幸にすることでしか生きられない。
ならばなおさら、茜に関わるべきじゃない。あんな、天然記念物並みのお人好しが失われることがあったら、人類の損失だ。
何より。あの笑顔が曇ることなんて、他ならぬ仁自身が嫌だった。
(もう、今度こそ、あの人に関わるのはやめよう……)
貰った思い出だけを胸にしまって。仁は、紙切れに書かれた番号をコールした。
「よう、いらっしゃい。おまえがアツシが言ってたやつか」
郊外。住宅街の奥まった所にあるアパート。見た目だけは小奇麗にしてあるそこの大家だという大柄な男は、部屋を訪ねて来た仁を迎え入れるなりそう言った。
臭い。部屋に入ってすぐに、仁は悪臭に眉をひそめた。男の汗と、酒と、たばこ。そして薄っすらと香る――クスリのにおい。
「何だよ。警官殴り倒したっていうからどんなゴリラかと思えば、えらい優男じゃねえか。おいおいこれなら別の仕事を頼んだほうがいいんじゃねえか?」
「……女ですか?」
部屋に足を踏み入れるなり、仁は端的に予想される答えを口にした。
その答えに、男はにんまりと満足げな笑みを浮かべると、馴れ馴れしく肩に腕を回し、仁の耳元に口を近付けた。
「話が早いやつは好きだぜ? 実は今ちっとそっち方面の人手不足でな。おまえ、ホストの経験とかあるか?」
「ないっすけど、女に貢がせるのは得意ですよ。それで生活してたとこもあるんで」
「おっし。じゃあ決まりだ。実はお前くらいの若い男が好きって女が多くてなー。相手してやってくれるか?」
「ええ、もちろん」
「おまえ、酒やクスリはいけるか?」
「酒は潰れたことはあんまないっすね。クスリはまあ……催しで使うぐらいだったら、たまに」
「よしよしよしよしっ。アツシめ、良い拾い物したじゃねえか」
「あの……すんません。実は俺、今泊る場所なくて。なんか、物件とか紹介してもらえないっすか?」
「おうそうだったな。おまえ、上の階の奥の七号室しばらく使っていいぞ。もちろんタダだ」
「タダすか」
「おう。前の住人が首なんぞ吊りやがってな。しかも事前に手首まで切ってだ。血は落ちねえし糞尿の痕も消えねえしで、借り手がつかねえんだよ。おまえの仕事から家賃はこっちで差し引いとくから、遠慮せずに使えよ」
ぜったいピンハネするだろ、とは言わない。
「あざっす。助かります」
とりあえず、寝起きできる場所があるだけ上等だ。事故物件だろうと、どうでもいい。しばらくここで『仕事』をこなして、適当なところで新しい『彼女』を見つけて出ていけばいい。
「ああ、そういえば――仕事って具体的に何をすればいいんすか?」
別に好色なババアの相手くらいだったらいくらでもできるが、さすがに猟奇趣味の持ち主の相手だったりしたら御免被る。
「ん。ああ心配はいらねえよ。こっちで見繕ったカモをひっかけてうまいこと誑しこめ。あとはこっちでやる」
「誑し込む、ですか……どのくらいまで? 有り金巻き上げればいいんすか?」
「おいおい、甘いこと言うなよ? 知ってんだろ? 女ってのは金を持ってなくても、後からいくらでも生めるんだよ」
嫌な予感がした。心臓が早鐘を打つが、相手に悟らせないように必死に平然とした顔を装う。
それを、どう勘違いしたのか知らないが。男は得意気に笑っていた。
「おまえが上から金を借りる。そんで女を保証人に仕立て上げて蒸発しろ。借金で縛っちまえば、あとはどうとでもなる」
ドクンっ、と。心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。だって、それは。その手口は。
仁にとって、とてもよく覚えのあるやり方だった。
(そういえば、この辺……俺の元々の家に近い)
縄張り。シマ。色んな言い方があるが、大体にして「悪い奴」というのは余計な衝突を避けるために、「商売」は自分の管轄区域で行うものだ。
ふと、仁の視線が机の上に吸い寄せられる。灰皿と吸い殻が散乱する机の上に、写真立てがあった。ガラの悪い連中が並ぶ中で、中心に立っていたのは――
「――ははっ」
忘れもしない、あの男だった。
七年だ。恐怖と、怒りと、憎しみと、嫌悪と。あらゆる負の感情は、最終的にそいつに行きついた。――母さんの仇が、いる。
「……お金借りさせてもらうんなら、挨拶がいりますよね?」
「ん? いや、そこまでする必要は……」
「筋は通したいんすよ」
「おっ、いいねえ。そういうの、嫌いじゃねえぜ」
薄暗い室内で、仁の顔は影になって男には見えない。それでよかったと思う。だって、この写真を見た瞬間から。仁は、笑いを堪えることができなかったから。
僥倖だった。
(ああ、ようやく。おまえを、この手で……)
「よし。じゃあ明日、おまえを兄貴のとこに連れてってやるよ」
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