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「……今後? 私たちのこれから先のお先真っ暗な未来が、そんなに楽しいの? お母さんがいなくなって、姉妹はバラバラになって、誰ともしれない他人と暮らす未来が、そんなに――」

「――そうならない方法がある」

 今度こそ、由奈は完全に言葉を失った。

 代わりに、勢い付いたのは遥だった。

「ほっ、本当ですか、一之瀬さん⁉ ほんとにそんな方法が⁉」

「ある」

「――~~~~ああっ!」

 喜色満面。安心して笑みすら浮かべた遥は、涙を流してその場にへたり込んだ。

 対して、由奈はまだ信じられないようだった。

「そんなこと、どうやって……」

「……そもそもネックになっているのは、後見人であるお爺さんに、おまえたちを養育できるだけの経済的、体力的余裕がないことだ。お年もお年だしな」

「だからっ! 私たちはバラバラに――」

「だが、何も馬鹿正直に爺さん一人でおまえたちを育てる必要はないんだよ」

 話を飲み込めない由奈と違い、遥は思い当たったのだろう。はっとした顔で仁を見つめた。

「経済的に余力がないなら、別に働けるだけの能力があるやつが働いて、そいつが金を出せばいい。体力的に面倒を見切れないなら、もっと若くて体力のあるやつが、代わりに面倒を見てやればいい。爺さんはそいつに監護業務を委託するって形で、法的な義務は果たせる」

「…………それって」

 ようやく合点が行ったのだろう。唇を震わせる由奈に、仁は自らが考えた案を伝える。

「――俺が、おまえたちの『父親』になる」

 今度こそ、誰も何も言わなかった。

 確かにそれなら、すべての問題は解決する。姉妹はバラバラになることもない。けれど、どうしても気になることがあった。

 黙って成り行きを見守っていた遥が、おずおずと尋ねる。

「あの、一之瀬さん? 働くって言っても、一之瀬さんは高校が――」

「高校は退学してきた」

「なっ⁉」 

 事もなげに言う仁に、遥も由奈も目を見張る。

「一昨日の時点で考えていたことだ。すでに爺さんにも話を通して、了承をとってある。退学届けも、今日提出してきた。丁度終業式だったからな。手続きにそう時間もかからないだろう」

「そんなっ⁉ 一之瀬さんはそれでいいんですかっ⁉」

「元々俺にとってあの高校は、先生と会うための場だったんだ……まあ今となっては他の意味もなくはないが、それでも、おまえたちの幸せと比べられるようなものじゃない」

 そう言って、仁は鞄から封筒を取り出した。とんっと畳に上に置かれたそれの中身が札束であることは、遥たちにも簡単にわかった。

「今まで俺がバイトで貯めた金と、もろもろの私物を売り払ってできた金だ。たぶん何か月かは食っていける。それに、友人の伝手を辿って土木建築系の仕事を紹介してもらった。今日の昼に返事ももらって、内定も決まった。高級取りとは言い難いが、おまえたちを食わせて学校にいれるくらいのことは十分にできる給料だ」

 それから、と。

「爺さんが昔住んでた静岡の実家を貸してもらえることになった。古い日本家屋でな、おばあさんが亡くなってから維持できなくなって引っ越したらしいが、掃除すればまだ使えるし、五人で住んでも全然余裕がある広さだそうだ。おまえたちにも転校してもらうことにはなるが、住む場所も家賃も問題ない――後は、おまえたちの気持ち次第だ」

 そう言って、仁はあらためて姿勢を正した。膝の上のひよりを下ろし、正座の姿勢を取る。

「おまえたちが俺を信用できないのは当たり前の話だ。この話も、すべて俺が勝手に進めたことで、なしにしてくれて構わない。だが、それでも、わがままを言わせてくれるなら。――俺は。おまえたち姉妹に、ずっと一緒にいてほしい」

 頼む。と、そう言って。仁は頭を下げた。

「――俺を、信じてくれ」

 長い長い、数秒間だった。誰も何も言わず、仁は決して頭を上げなかった。

 けれど、そんな時間にも終わりは来る。

「……頭を上げてください。一之瀬さん」

 仁の肩に手を当てて、遥が微笑んだ。ようやく顔を上げた仁に向けて、遥は言う。

「助ける側が頭を下げるなんて、おかしいじゃないですか。お願いするべきなのは、私たちのほうなのに」

「……だが、俺にはこれしか、おまえたちに信じてもらう方法は――」

「お母さんが選んだ人です。私にとっては、それだけで十分ですよ」

 それに、と。わずかに赤く染まった頬で、遥は言う。

「言ったじゃないですか。ダメだなんて、俺が絶対言わせないって。傍にいてくれるんでしょう? 約束、破ったら嫌ですよ?」

「遥……」

 ようやく顔を上げた仁の膝に、もう一度ひよりが上ってくる。

「お兄ちゃんは、お父さんになるの?」

「……まあ、そうなるな」

「やったぁ!」

 喜びを顔いっぱいに浮かべて、ひよりは仁に抱き着く。

「もう、お兄ちゃんとお別れしないでいい? ずっと一緒に居てくれる?」

「……おまえがそれを望む限り、俺はおまえのために生きるよ」

「~~~~~~~っ! えへへー」

 仁の胸板に頬をすりすりしてご満悦のひよりをあやしながら、仁は双子のほうに顔を向ける。

 唇を噛み締める由奈は、迷っているようだった。それでも、やがて覚悟を決めた強いまなざしで、仁を睨んだ。

「私は、あなたを信用しない」

「わかってる」

「けど、みんなが望む幸せが、あなたと共にいることなら。私はそれを邪魔しない。その代わり、私が一番近くであなたを見張る。あなたが万に一つも裏切ったりしないように。私が、みんなを守ってみせる」

「ああ、それでいい」

「……万が一、みんなを不幸したら。地の果てまで追って殺してやる」

「約束する。俺は絶対におまえたちを裏切らない」

「なら……今は、それでいい」

 四人中三人の了解は得た。後は……


「私は行かない」


 ある意味で予想通りだったその答えに、仁はわずかに顔を強張らせる。

 ここまで沈黙を保っていた玲奈の、初めての言葉は、冷たい拒絶だった。

 遥が心配そうに玲奈に近づく。

「玲奈? 一之瀬さんは……」

「遥姉は馬鹿だよ…………みんな、馬鹿ばっか」

 そう言って、玲奈は顔を上げ――誰もが息を呑んだ。喜怒哀楽。これまですべてをストレートに表現していた玲奈の顔には、今あらゆる感情が浮かんでいなかった。

 まるで由奈と入れ替わったような。いや、もっとひどい。それは、心そのものが壊れてしまった人の顔だった。

「最初はお父さん、次はお母さん――今度はそいつ? 何回繰り返すの? 何回やったらわかるの? 何度ダメになったら、無駄だってわかるの?」

「……玲奈。他に方法はない。ここはみんなといっしょに――」

「じゃあみんなだけで行けばいいよ。私はごめんだから」

「――えっ?」

 それは、生涯を共にしてきた片割れからの、初めての拒絶だった。由奈の伸ばした手は振り払われ、玲奈は立ち上がって、由奈から一歩距離を取った。

「そのほうがあんたもいいでしょ? こんな可愛くないガキをあやす手間も省けるし、一人分の生活費も浮くんだから。良いこと尽くめじゃない」

「玲奈。俺はお前のことを嫌ってなんかいない。絶対にだ。そして、俺の負担を気にしているんなら、なおさら心配はいらない。子ども四人を養うくらい、十分可能だ。爺さんも協力してくれると言っている。おまえが気にすることなんて――」

「それであんたはどうするのよ?」

 予期せぬ返しに、仁は一瞬言葉につまる。

 そんな仁を、玲奈は感情の浮かばない目で見つめていた。

「高校もやめて。朝から晩までキツイ仕事頑張って。私たちを育てて。それで何になるのよ。あんたに何の得があるのよ。それのどこに――あんたの幸せがあるっていうのよっ⁉」

 一転。玲奈の表情が、激情に染まる。

「お母さんだってそうよ。毎日毎日がんばって。身体壊すまでがんばって。その結果がこれよ。だから早死にしたんじゃない。泣きながら死んだんじゃないっ⁉ 不幸になって死んだんじゃないっ⁉」

「れ、な……?」

「――由奈。あんただったらわかるでしょ? お父さんが出ていったほんとの理由」

 グリンっ、と。玲奈の瞳が由奈を向いた瞬間、由奈の身体がびくっと跳ねた。初めてみる片割れの表情に。由奈は涙を浮かべて震えていた。

「お父さんはね、嫌になったのよ。私たちを育てるのが。当たり前だわ。遥姉も二歳で、育児もまだまだ大変な時に、いっぺんに二人も増えたのよ? 邪魔になって当然だわ」

「れな……やめて。れな……」

「覚えてるでしょ? お父さんが私たちを見つめる目が、少しずつ冷たくなっていくの。さぞや邪魔だったんでしょうよ。私たちが一人だったら、お父さんが費やす時間もお金も労力も半分ですんだ。私たちが生まれなければ、そんなものはそもそもかからなかった」

「……れな……いやだ……れな?」

「今ならわかるわよ。お父さんが考えていたこと。こいつらにかけたぶんのお金で、俺はどれだけ幸せになれたんだろう。こいつらに苦労かけられたぶん、俺はどれだけ不幸になったんだろう。こいつらがいないほうが、俺は幸せになれるんじゃないか――そうやって、お父さんは出ていったのよ。他でもない自分が幸せになるために」

「れ、な……」

「……あんたも、いずれそうなるわよ」

 項垂れる由奈を一瞥して、玲奈は仁のほうに視線を向けた。

「お母さんのこと好きだったんでしょ? だから、馬鹿正直に私たちを守ろうなんて思ったんでしょ? それが自分のやりたいことだって勘違いしちゃったんでしょ? でもその気持ちは永遠じゃない。愛情は有限なのよ。しばらくは私たちを守るヒーロー気取りで気分がよくても、いつかは絶対に――」

「そんなことはありえない」

 はっきりと、断言する口調だった。

 その頑なさが、なおさら玲奈をイラつかせる。

「私たちといっしょにいても、あんたは損するだけでしょ? 不幸になるわ、絶対に。だってもう手放したじゃない。勉強頑張ってたんでしょ? 明るい未来は、もうあんたの前にはない。今はよくても、絶対に後悔――」

「しない」

 またも。玲奈の言葉を遮って、仁は断言する。

「誰より大事な人との約束だ。何より、俺が決めたことだ。俺の意思で、俺が選んだ道なら。先に何が待っていようと、後悔はない――決して、後悔だけはしない」

 どこまでも頑ななその言葉が――玲奈の心の最後の砦を突き崩した。

「――そうやってっ‼ お母さんは死んだのよっ!」

 魂を引き裂くような、悲痛な絶叫だった。 

 項垂れる由奈も、口を覆う遥も、叫ぶ玲奈も、みんなが泣いていた。

「私たちを守るんだって。そう言ってがんばって、自分の命も全部使い切ったからっ! だから死んじゃったんでしょうっ⁉ ねえ、わかってる? あんたが言ってるのは、そういうことよ。あんたもいつか死んじゃうのよ。お母さんみたいに。私たちのためにっ!」

 一瞬、仁は迷った。

正直仁は、それでも構わなかった。それが茜を追い込んだせめてもの罪滅ぼしになると思った。けれどその動機を口にしても、いたずらに玲奈を怒らせるばかりだと思った。

だから、仁は優しい嘘をつくことにした。

「死なねえよ。安心しろ。俺は、こう見えてけっこう強いんだ」

 玲奈が、目を見開いた。玲奈だけじゃない。由奈も、遥も、同じ表情を浮かべていた。

 仁の背筋を、悪寒が突き抜けた。嫌な予感がする。自分が何か致命的なミスをしたのだと本能的に直感し、仁が戸惑っているうちに、呆然とした玲奈の口からぽつりと、か細い声が零れ落ちた。

「――お母さんも、同じこと言ってた……」

 ふらっと、玲奈がよろめく。

「やっぱりそうだ。みんな死んじゃうんだ。いなくなっちゃうんだ。私たちのせいで。私たちのために、みんな不幸になっていく。みんな……みんないなくなって――」

「違う! 違うんだ玲奈――」

「なんで? どうして? 私が悪い子だから? 素直にありがとうも言えないダメな子だから? 由奈よりお歌もお勉強も運動もできないから? 私がお母さんを困らせるから?」

「違うそんなことはない。聞くんだ玲奈。こっちを見て――」

「私がいけないの? お父さんもお母さんも仁さんも、みんなみんな私のせいで? 私が……みんなを――」

「玲奈っ!」

 強引に肩を掴んで、視線を合わせる。狂乱する玲奈を止めるには、これしかないと思った。

 けれど、その目を覗き込んだ瞬間に。玲奈の内の何かが、決壊したのを感じた。

「だってそうじゃないっ⁉ みんな……みんな私のせいで不幸になっていく! 死んじゃうんだっ⁉ 全部私が悪いの! 私はいちゃいけないの!」

「そんなわけがあってたまるかっ! 玲奈っ!」

「嫌なのっ! もうこんなのは嫌っ! こんな……こんなことになるなら――私なんて、生まれてこなければよかったのにっ!」


「――違うっ‼」


 部屋中に響きわたるような大声で、仁が怒鳴った。窓を震わすほどの大声は、一瞬だけ玲奈に冷静さを取り戻させたようで。

「……聞いてくれ。玲奈。先生が言ってたんだ。昔……」 

「――うるさい。うるさいうるさいうるさいっ!」

 泣き叫び、身を捩った玲奈は、仁の手の中から離れていく。そのまま走り出した玲奈は、止める間もなく玄関から外に飛び出していってしまった。

「――玲奈っ⁉」

 伸ばした手は、届かなかった。一瞬の躊躇があったからだ、

 玲奈の叫びは、どうしようもなく思い出させた。昔の仁の、身を焦がすほどの自己嫌悪を。だから、どうしても躊躇ってしまった。

 今の俺に、あの時の先生のように、誰かを救う資格があるのか? ――本当に、俺にあの子を幸せにできるのか?


「――追って!」


 そんな迷いを、力強い叫びが吹き飛ばす。

 涙を流しながら、それでも由奈は、片割れを守るために立ち上がろうとしていた。

「あなたじゃなきゃダメなの! あなたが玲奈を幸せにするの! 言ったでしょ⁉ 約束したじゃないっ⁉ 私の玲奈を不幸にしたら許さないんだからっ!」

 絶叫する由奈の傍らで、遥が寄り添っていた。

「追ってください、一之瀬さん。あの子はきっと、大人を待ってるんです。私たちじゃ届かない。だから、どうか、お願いします……」

 つんっと、裾を引っ張る小さな手があった。ひよりだ。

「玲奈お姉ちゃんとお兄ちゃん、けんかしちゃったの?」

「……ああ、そうだ。ごめんな」

「そっか。じゃあ仲なおりしないとね。大好きな玲奈お姉ちゃんと、大好きなお兄ちゃんがけんかしたままだったら――天国のお母さんもかなしいもん」

「――っ! ひより、おまえ……」

 この場の誰より幼い少女は、この場の誰より冷静に、ちゃんとやるべきことがわかっていた。

 勇気が足りない仁の背中を押すために、ひよりはそっと笑ってみせる。

「だからね、お兄ちゃん。ふぁいと・おー、だよ?」

 そんなエールに、応えなくていいわけがなかった。

「――ああ、行ってくる!」

 そして、仁は駆け出した。


 玄関を越え、道路へ出る。

 子どもの脚だ。そう遠くには行けない。そう当たりをつけて、駆け出す。足が、驚くほどに軽かった。

 ああそうだ。何を迷うことがあったんだ。資格がどうとか、責任がどうとか、くだらない。そんなことよりも、もっと大事なことがあるだろう――っ?


「――俺は、先生と約束したんだっ!」

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