39

 そんなことがあったのが、半年前のこと。

 仁は、茜に出会って変わった。茜の献身によって、一之瀬仁が「幸せ」になった。

 その代償として、茜は死んだ。

 簡単なことだ。茜の死因は、過労とストレス。その最たるものが何だったかと言われれば、仁に決まっている。少年院にぶち込まれるような問題児だ。しかも落ち着いた後も、ずっと補習を受け持っていた。

 大変でなかったはずがない。負担だったのは間違いない。自分が全てだと驕るつもりはないが、茜の死の原因の一端が仁にあることは明らかだ。

 少なくとも、仁はそう結論付けていた。

「えへへっ、ありがとうございます。一之瀬さん。少し、楽になりました……」

 だから、その娘から向けられる曇りのない信頼のまなざしは、仁の心を苛んだ。

 自分の無力を呪った少女が落ち着くまで抱きしめ続けて、やがて遥が泣き止むと、二人は再び歩き始めた。心なしか、遥の表情は少し明るくなっていた。

 そして今。二人は、高崎家へとたどり着いた。

「正直、ほっとしました。一之瀬さんがいると、ひよりが嬉しそうにするから……私も心強いです。えへへっ」

 そんな資格はないんだと、叫びたかった。

 けれど、自分の弱い心を、仁は必死に噛み殺す。弱さを曝け出して楽になるのは仁だけだ。遥に無駄な負担をかけるわけにはいかない。懺悔なんて、死んだ後で十分だ。

 はにかみながら遥は鍵を開け、玄関の扉を開いた。足を踏み入れて、嫌でも気付く。あれほど笑顔に溢れていた高崎家は、重苦しい沈黙に包まれていた。

「……ただいまー」

「……お邪魔します」

 努めて明るい声を出して、遥が上がっていく。そのあとを、仁が一歩遅れてついていった。

 そして居間を覗き込んだ、その瞬間――


「何しに来たの」


 背筋が凍るような敵意の視線が、仁を貫いた。

 部屋の隅。二人で寄り添うようにしてくっついた双子は、昏い瞳で仁を睨んでいた。

「……二人とも、一之瀬さんは私たちを心配して――」

「要らない。帰って」

 双子のうち、由奈の冷たい拒絶の声が部屋に響く。普段あまり能動的に動くところを見せない由奈は、物言わぬ玲奈の頭を抱いたまま、仁を冷たく睨んでいた。

「必要ない。私たちには、家族以外いらない。あとはみんな敵。消えて」

「……ちょっと、由奈! 一之瀬さんはお母さんの――」

「お母さんを守れなかった人なんて必要ないっ!」

 由奈の怒声が、ビリビリと室内を揺らした。肩を震わせ、ふ―っ、ふーっ、と浅い息を繰り返す由奈。

 誰も、何も言えなかった。あの物静かな由奈が、怒りを露わにしていた。

「……誰も頼んでなんかない。来てほしくなんてなかった。何もできないくせに、恩着せがましい。役立たず。私たちからお母さんを奪った癖に、今更なにを……」

「……由奈っ。いくらなんでもそれは――」

「いい、遥」

 さすがに止めようとした遥を、仁が手で制する。そして一歩前に出て、腰を落とした。膝をつき、座り込む由奈と目線を合わせる。

「言いたいことがあるなら、言ってくれていい」

「……なにを」

「恨んでるんだろ、俺のこと?」

 目を見開く遥。そして、寂し気に笑みを漏らす仁。そんな態度が気に入らなくて。由奈はギリっと歯を食いしばる。

「……半年前から、お母さんはおかしくなった。あなたの話ばかりするようになった。あなたの話をするときのお母さんは、昔の――お父さんといるときのお母さんみたいだった」

 憎い。憎い。憎い。その「お父さん」という単語を口にした瞬間に、由奈の顔が憎しみ一色に染まる。

「私たちを――お母さんを捨てたお父さん。絶対に許さない。あいつが出ていってからだ。お母さんは無理をするようになった。わたしたちのために、いつも作り笑いを浮かべて、夜もひとりだけずっと起きてて。帰りもだんだん遅くなって、どんどん体重も落ちていった」

 小学生の少女の身に余るほどの憎悪を、由奈はそのうちに抱えていた。

 どれほど、苦しかっただろう。それを表に出すこともせず、由奈はずっと玲奈のそばにい続けたのだ。今も、心を閉ざしてしまった玲奈の代わりに、敵から「家族」を守ろうとしている。

「あいつは私たちのことなんかどうでもよかったんだ。その証拠に、あいつは一度だって私と玲奈を見分けられなかった。何度も何度も間違えて、間違えたことを教えたら不機嫌になるから、私たちは入れ替わったままでいることを覚えた――あんなやつのせいでっ! 玲奈もっ! お母さんもっ!」

 優しい子だ。強い子だ。一回り以上歳の離れた男相手に、気丈に立ち向かっている。気丈に、涙を流しながらも睨みつけて。

「あんたなんかいらない! どうせ私たちを捨てるんだ! いなくなるんだっ! 私たちの幸せを壊して、奪って! お母さんみたいに、私から遥姉も奪うんでしょう⁉ ひよりだって連れていくんでしょう⁉ そんなの絶対認めない、私たち家族は、ずっと一緒に――」


「――んっ……どうしたの、由奈お姉ちゃん?」


 はっとしたように、由奈が止まる。

 これまで眠っていたらしいひよりが、起き出してきた。まだ寝ぼけた様子のひよりは、ふるふると首を振る。あたりを見渡すように、誰かを探すように。だが見つからないらしく、首を振り続ける。

「ひっ、ひより……」

「――ひより、おはよう」

 震える由奈の声を掻き消すように、仁が呼びかけた。

 呼ばれたひよりはハッと振り向いて、仁を見つけた途端、ぱあっと花が咲くように笑った。

「お兄ちゃんっ!」

「――っと。悪いな、一日留守にして」

「ううん。ひより、寂しくなかったよ。ちゃんとお利口にしてたもん」

「……そうか」

 とてとてと歩いて仁の懐に飛び込んでいくひより。それを自然に受け入れた仁は、優しくひよりの髪を手櫛で梳き始める。

 それきり、誰も何も言わなくなった。立ち尽くす遥。物言わぬ玲奈。唇を噛み締めて押し黙る由奈。仁の膝に頭を埋めて抱き着くひより。

 そして、しばらくひよりの頭を優しく撫でていた仁は、不意に口を開いた。

「由奈」

「――っ⁉」

「俺の事を、信じてくれとは言えない。おまえたちに信用してもらえるだけのものを、俺は持っていないから。だから、頭を下げるくらいしか、俺にはできないけれど」

 それでも、と。

「この子の幸せを願う気持ちだけは、嘘じゃない。それだけは、信じてほしい」

 不思議そうに見上げるひよりに、仁はそっと微笑んで。目を丸くする由奈と、真っ向から視線を合わせた。

「おまえたちの今後について――話がある」

 それは、今日。仁がどうしてもこの高崎家に来なければならなかった理由だった。


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