29
わずかに緊張しながら、仁は真新しいオフィスのインターホンを押した。
『——はい、○○商事』
応対に出た声の主は、間違いなく目当ての人物であり、仁はひとまず胸を撫でおろす。
「俺です、仁です。仕事が終わりましたんで、ご報告に」
『……おう、入れ』
「失礼します」
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。照明に照らされた応接室には、いくつかの調度品と机、ソファが置かれており、
「ご苦労だったな、仁」
正面のソファに腰掛けていたのは、仁が『先輩』と呼ぶ相手、その人であった。
上等のスーツに身を包んだ、坊主頭の強面の男。ジャケットを脱ぎ、捲り上がったワイシャツの袖から覗く両腕には、びっしりと刺青が彫り込まれている。
仁たちのような、少年の非行集団とは違う。社会の闇の中で育ち、抜け出すことなく、自らその一部となった者――正真正銘のヤクザだ。
「……言われた通り、新しく借入に同意させました。こちら、借用書です」
「おう」
知った相手とはいえ、流石に本物を相手にすれば緊張もする。わずかに汗をかきながら、先輩が書類を改めるのを直立不動のまま待ち続け、
「……よし。完璧だ。さすがだな」
薄く笑みを浮かべた先輩がそう口にした瞬間、ようやく肩の荷の下りる心地がした。
「まあ、座れや」
「失礼します」
促されるままに先輩の向かいのソファに腰を降ろすと、おもむろに目のまえに札束が放り出された。
「約束の報酬だ」
軽く頭を下げてから札束を手に取り、金額を確かめていく。
「……約束の額より、少し多いですね」
「小遣いだ、とっとけ」
一瞬迷ったが、断るのも失礼にあたると考え、黙って懐に入れる。
「ありがとうございます。助かります」
「気にすんな。俺はこれでもおまえらを買ってるんだ」
そうこうしているうちに、奥から別の男がお盆を手に現れる。線の細い男は、無言のまま仁の前にお茶を、先輩の前に酒のグラスを差し出すと、そのまま再び奥へと下がっていった。
「おまえらに取り立てを任せるようになってからこっち、回収率が良くてな。ここんとこは蒸発する馬鹿もいねえ。まったく、できる『後輩』がいて、俺も鼻が高いぜ」
「恐縮です」
「どうだ? もうちっと仕事も増やしてみるか? おまえのチームも、そろそろ頭数が増えきただろ。金が入用じゃねえのか?」
「……そうっすね。正直、ぼちぼち稼ぎ増やさなきゃ、やっていけなくなると思います」
こうして『先輩』から委託された取り立ての仕事をチームで行い、報酬はチーム全員で山分けする。そうやって、仁たちは生活していた。
親がいない、あるいは頼れない子どもたちが、それでも食っていくためには、こうしたアングラな方法で金を手に入れるしかない。
中学生以下はバイトもできない。この国の法律は、保護者のいない子どもなんてものを想定すらしていない。だから守ることもないし、それどころか、彼らがまっとうに生きるための道を自ら塞いで、後に犯罪者だと言って社会から排斥するのだ。
自分が綺麗でいるために、汚いものから徹底的に目を逸らし続ける。本当に、世の中はよくできていた。
「仕事を増やしていただけるなら、ありがたいです。ただ……せっかくなら、そろそろ別のヤマにも手を出させてもらえないかな、と」
「……ほぅ」
すっ、と『先輩』が目を細める。
今のように、『先輩』が持ってきた仕事の下請けをするだけなら、正式なヤクザ者でなくても問題ない。しかし、自分でシノギを得て稼ぐというのなら、それはつまり、
「正式に――俺を『上』に紹介しちゃもらえませんか?」
正真正銘、暴力団の一員になるということだった。
すぐに答えはなかった。目を閉じたまま押し黙った『先輩』は、長い沈黙の末に、ようやく口を開いた。
「……なあ、仁。おまえを紹介しろってんなら、そりゃあすぐにでもできる。ここ三年のおまえの働きを聞けば、兄貴も喜んで盃を交わしてくれるさ。だがなあ、そりゃあ今必要なことか?」
「……どの道、行先は決まってるんだ。だったら早いほうがいいでしょう」
「…………そりゃあ違うぜ、仁」
グラスを掴んだ『先輩』は、一気に酒を煽ると、空になったグラスを勢いよくテーブルの上に叩きつけた。ガラスのグラス底が磨き抜かれたアンティークの机盤を叩き、高々とした音が響き渡る。
仁と『先輩』のちょうど中間に置かれた、空のグラス。それはまるで、『あちら側』と『こちら側』を隔てる境界の、楔のようだった。
「おまえが今いるところはな、ギリギリだ。おまえが言う通り、あと一歩踏み出すだけでこっち側だ。けどな、まだ、ギリギリのところで引き返せる。そういう瀬戸際なんだよ」
「……今さら何を。引き返したとして、俺にも、あいつらにも戻る場所なんてない。そんなこと他でもない『先輩』が一番よくわかってるでしょう?」
「…………ああ、そうだな」
居場所があるやつは、そもそもこんなところまで堕ちてこない。誰にも愛されず、どこにも行けなくなった奴らが集まって、みんなでいっしょに転がり落ちて、行きつく先が『ここ』だ。
「帰る場所なんていらない。俺は、ここで生きて、ここで死ぬって決めたんです」
思い出す。幼く愛おしい思い出と、それが粉々に壊れたときの、灼けつくほどの怒りを。
普通に生きることができたら、そうしていた。それでも、どれだけ忘れようとしても、心の奥底から湧き上がる怒りが、何度でも胸を焦がすのだ。
だから、仁はこの憎悪に殉じると決めた。日常を捨て去り、誰よりも憎い相手と同じクズに成り果てようとも、怒りのなかで生き続けると誓ったのだ。
そしていつか、必ずアイツを——
「……なあ、仁。おまえが何にキレてるのか、俺は知らねえよ」
気付けば、仁は拳を握りしめていた。爪が皮膚に食い込んで血が流れ落ちる、そんな有様になるまで、まるで気付かなかった。
そんな仁の姿を、どこか寂し気な目で見つめながら、『先輩』は語る。
「でもなあ、知ってるか? 怒りってのはな、忘れられるんだよ。誰かが、忘れさせてくれる」
「…………だれ、か?」
「決まってんだろ――女、だよ」
いつになく穏やかな笑みを浮かべながら、子どもが泣いて逃げ出すような強面の男は、およそ似合わない台詞を口にした。
「……別に、女に困ったことはないっすけど」
「どうせおまえのいう女なんて、あれだろ。飯と金と寝床のおまけだろ。俺が言ってんのはそういうことじゃねえ……おまえさ、女に本気になったことねえだろ?」
怪訝そうに眉を顰めながらも、仁は先輩の言うことをかみ砕こうとしていた。
女がどうこうの話をするなら、今現在の仁の彼女は三人いる。日替わりでそれぞれの家を転々としては、飯を食って、夜を明かす。ついでに服飾品の類も、よくプレゼントとして受け取っていた。衣食住を保障するという意味では、まさに仁にとってのライフラインといってもいい。
中学の頃から、ずっとそういうふうに生きてきた。女がどうこうというなら、愛なんて飽きるほどに持っている。けれどどうにも、『先輩』がいうのはそういうことではないらしい。
「誰か思い当たるやつはいねえのか? そいつが笑ってるだけで、何もかもどうでもよくなっちまうような……安心できる相手がよ?」
「そんなやついるわけ――」
いるわけない、と言おうとして。ふと、お節介な女の馬鹿みたいな笑顔が脳裏をよぎった。
「――――?」
いったい何故今このタイミングで、と。すぐ頭を振って追い出そうとしたが、その一瞬の沈黙だけで『先輩』は何かを察したらしい。
「なあ、仁。おまえ高校通ってるんだろ?」
「…………義理で籍だけ置いてるだけっすよ。半年もせず退学になります」
「それでもだ。おまえの親は、おまえを諦めちゃいねえっってことだろう」
今度こそ、仁の表情が強張る。
仁の仲間たちの中で、高校へ入学したのは仁だけだ。あとは中学もろくに出ていない。そしてそれは、この界隈ではごく普通のことだ。頭の出来云々ではなく、単に、子を学校に通わせる親なんて早々いない。ということだった。
「どうせどうしようもねえ奴なら、最後は自然とこっち側に来るんだ。何もそんなに焦って先を急ぐほどのことは無え。違うか? だからよ、仁――馬鹿な真似はよせ」
大人が子どもを諭すような物言いだった。
恐喝、強盗、暴行。なんでもござれの極悪人で通った『先輩』は、いまどきのヤクザ者としては珍しく、通すべき筋を弁えていた。
お上の法でもなく、世間の道理でもなく。人として、超えてはならない一線がある。そんなことは、誰に言われるでもなく仁自身がわかっていた。それでも、
「……それでも、賢い生き方なんて、俺にはできない」
一言、「失礼しました」とだけ告げて、仁は立ち上がる。
背を向けて、振り返ることもなく去っていく背中は、端から聞く耳など持たないといったふうだった。言葉などでは止まらない。道理だろうと納得できない。だから進む。いつか、行き止まりにぶち当たるまで。
「…………若いねえ」
事務所を後にした仁は、夜中の雑踏のなかを足早に歩いていた。
「戻る場所なんていらない……あとは、進むだけ……」
胸が、痛かった。六年前から、ずっと痛みが消えない。心についた傷痕から、どろりと熱いものが溢れ出して、胸を焼き続けるのだ。
それでもいい。この痛みを忘れるよりも、ずっとマシだ。
「母さん……俺が、必ず……っ!」
歓楽街の闇を睨む仁の瞳には、憎悪の炎が燃えていた。
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