30
「——い………おーい………仁くーん?」
「…………あ?」
仁が目を開けたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは、真昼の陽光と、
「あっ、おはよう。仁君」
太陽よりもなお能天気な、茜の笑顔だった。
「…………なんであんたがここにいんだよ?」
「むしろそれは私の台詞かも。屋上(ここ)一応立ち入り禁止なんだよ?」
仁のお昼寝スペースの一つたる屋上に、なぜか茜はいた。
「てゆうか、また授業さぼったでしょ? 駄目だよ、ちゃんと出ないと」
「知らねえっつてんだろ」
「あっ、でも。ちゃんと学校に来てくれるってことはさ、少しはやる気に――」
「日中に外歩いてると補導されてめんどくせんだよ」
けれど、むしろ今の状況のほうが面倒くさいかもしれない。失敗したと嘆息しながら、仁はおもむろに起き上がり、立ち去ろうとする。
「あっ、待って、仁君――」
「……なんだよ。補習なら行かねえって――」
うんざりしながら振り返って――動きが固まる。
仁の頬に、茜の手が触れていた。両方の手で頬を挟んで、緩やかに仁の顔を自分に向けた茜は、完全に固まった仁の瞳をじっくりとのぞき込んでいた。
「…………なんのつもりだよ」
一瞬固まった仁だったが、とりあえず意味不明な行動を問いただそうとして、
「――仁君、なんだか疲れてる?」
初めて見るような茜の真面目な顔に、今度こそ言葉に詰まった。
その沈黙をどう解釈したのか、茜は心配そうに眉をひそめる。
「やっぱり具合悪そう……うん、よし! 今日は私が家まで送って――」
「馬鹿言うなバカ……何も疲れちゃいねえよ、さっきまで寝てたんだから」
「熱とかは?」
「ない」
「そっか…………でもやっぱり、元気ない感じだよ?」
ちっ、と舌打ちして、仁は茜を睨みつける。
「気のせいだ。ほっとけ」
「うーん、でもやっぱり…………あっ、そうだ!」
ふと、なぜか、唐突に、嫌な予感がした。
「あのね、仁君に来てほしいところがあるんだけど」
いかにも名案を思い付いたとばかりに、茜は顔をぱあっと輝かせる。
眩しいほどのその笑顔に、仁は猛烈な悪寒を覚えていた。
◆
「せんせいさよならー」「ばいばーい」「またあしたー」
子どもの能天気な笑い声と、保育士たちの穏やかな声が飛び交う、お迎え時の保育園。その一角に、明らかに周囲から浮いた男が一人いた。
着崩した学生服と金髪、チャラチャラしたアクセサリーと片耳のピアス。いっそ清々しいほどのヤンキールックの少年が、子どもを迎えに来たお母さんたちに混じって突っ立っていた。
「…………説明してくれ。どういう状況だこれは」
「どうって……保育園のお迎えだけど?」
心なし顔が引き攣った仁が問いかける。
あの後、「いっしょに来てほしい」の一点張りな茜に対し、抵抗を続けた仁だったが、欠片も引き下がる気配も見せない茜にあえなく根負けし、気付けばこんなところまで連れてこられた。
実際、昨日の今日で怠かったのは事実。従うだけ従って満足してもらおうと考えたのだ。
その安直な考えを、仁は今猛烈に後悔していた。
「そんなことくらい説明してもらわなくてもわかるんすわ。俺が訊きたいのは、なんで、俺と、あんたが、ここにいるのかってことだ」
仁は、子どもが苦手だ。いざとなったら男は殴り倒せばいいし、女の扱いは慣れている。けれど、子どもにはどう対応すればいいのかわからない。だから保育園なんてのは、仁にとっては魔境にも等しい。なんならちょっとキレかけてすらいた。
対する茜は、「ああなんだそんなこと」といったふうに笑うと、何でもないかのように答えた。
「ちょうど私の娘のお迎えがあったから。仁君もいっしょにどうかなって」
「へー娘のお迎えね、それはご苦労なことで…………待て、娘? はっ? 私の? えっ、娘⁉ あんたの⁉」
「? そうだよ? 私のかわいい娘ちゃん」
「………………子どもいたのかよ」
常の張り詰めた雰囲気はどこへやら、口をあんぐりと開けて驚愕する仁。
「ふふっ、なに? そんなにびっくりした? 仁君もそんな顔するんだぁ」
「いやだって……いくつだよ、子ども?」
「えっとね、一番上の子がいま十三歳」
「はっ⁉」
「下の子が五歳。全員女の子で、四人姉妹だよ」
「はあっ⁉」
相次ぐ驚愕の事実に、完全に固まる仁。正直、中学生程度の恋愛しかしたことないんだろうと思っていた相手は、まさかの経産婦だった。内心子ども扱いしていただけに、驚きだった。
同時に、頭の中の冷静な部分が計算していた。いつぞや小耳に挟んだ茜の生年月日からの年齢と、長女の歳から、出産時の年齢を割り出して、それが一般的に母親になるには早すぎる年代であることに思い至る。
――仁の周りでは、珍しい話ではない。判断能力に乏しい女なんて、男にとっては絶好のカモだ。使えるだけ使い尽くして、価値がなくなったら捨てる。そうして捨てられた先で、女たちが辿る末路は、大抵はろくでもないものだ。
まさか、この能天気女に限ってそんなこと……とも思うが、心の中に沸いた疑念は消えなかった。
「…………なあ、その……あんたさ、旦那はいま――」
「――あっ、ひよりっ!」
散々迷いながらも、切り出そうとした仁だったが、茜の明るい声にかき消された。
びくっ、と肩を跳ねさせた仁が茜の視線の先に目をやれば、そこには、
「あっ、おかあさーんっ!」
弾けるような笑顔と共に、こちらへ駆けてくる小さな人影があった。短い歩幅で一生懸命走ってきたその子どもは、勢いをそのままに、茜の胸に飛び込んだ。
腰を落として突撃を真っ向から受け止めた茜は、少女を強く抱きしめると、とても愛おしそうに頭を撫でていた。
「おかえり、ひより」
「うんっ! ただいま、おかあさん!」
溌溂とした声で、ひよりは答えた。母の温もりを全身で感じて、ご満悦の様子だったひよりだが、ふと、傍らに見知らぬ顔がいることに気付く。
「おかあさん、だれ?」
「この人はね、仁君っていうの。お母さんの生徒さん。とってもすごい子なんだよ」
「…………………おい、俺は……」
「ふーん……」
母の言葉が、わかっているのかいないのか。とにかく興味を持ったらしいひよりは、幼児がその辺の物をとにかく手に取るように、仁に向けて手を伸ばして、
「————っ⁉」
顔を引き攣らせた仁は、勢いよく身体をのけ反らせて、小さな手を逃れた。
「……?」
「——っはあ………はっ……はっ……ふっ……」
不思議そうに首を傾げるひより。
子どもの純粋な目が、仁(自分)を見ていた。曇りのないまっすぐな瞳に映っていたのは、みっともなく顔を強張らせた自分の姿。息は荒く、全身に嫌な汗が浮いていた。
どんな修羅場でも、こうまでの醜態は晒さない。それでも、穢れを知らない幼い瞳に映る自分の姿は、なにか、とても醜く思えて。
母に抱かれて幸せそうにする子どもの姿が、かつての自分のそれに重なり――
「――怖くないよ、仁君」
ふと、優しい声が耳に届いた。屋上で頬にふれた指のような、心地よい温もりが、肌を撫でる。仁の視線の先で、茜はいつも通りに、優しく微笑んでいた。
「壊れたりしないよ。だってほら、こんなに可愛いんだもん」
愛しさをいっぱいに湛えた目で、ひよりに頬ずりして。茜は、ひよりの手を取ると、もう一度仁のほうへ差し出した。
「だから、ねっ? 仁君も」
動揺して、迷って。おそるおそる、仁は差し出された掌に、手を伸ばして。指先が、小さな掌に触れた。
「ねっ? あったかいでしょう?」
自分の手よりも何倍も大きな手を、不思議そうにぺたぺたと触っていたひよりは、やがて両手で仁の掌を包みこむようにして掴むと、
「――あはっ」
何が面白いのか、満足そうに笑っていた。
握り返せば壊れてしまいそうなほどに小さな掌は、驚くほどに温かくて。そういえば、もうずっと、誰かと手を繋いだこともなかったな、と。仁は思い出していた。
「……ああ。あったかいすね、先生」
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