28

 そして、仁は初めての補習として、空き教室で遥作成の簡単なテストを受けることになった。最初に四〇分ほどの講義を行い、そのあとにどれだけ身に着いたか試すと言って問題用紙を渡され、一時間ほどかけてテストは終わった。

 そして今、採点を終えた茜はなにやら震えていた。

「……仁君」

「なんだよ」

「すごいよっ! ほら、見て!」

 そう言って突き出された答案用紙には、でかでかと赤い文字で「四〇点」と書かれていた。

「……余裕で赤点だと思うけど?」

「ううん。今までろくに授業も出てないのに、今日初めて授業受けてこの点数なら十分だよ!」

 そんなもんか? と仁は懐疑的だったが、茜はこの結果にご満悦らしい。

「仁君、たぶん中学校もこんな感じであんまり授業でてなかったんでしょ?」

「……まあな」

「それでも高校入れたんだから、すごいよ。きっとちゃんと頑張れば、もっと……」

「興味ないっす」

 その時。不意に携帯が鳴った。

 ポケットから携帯を取り出した仁は、すばやく画面に目を走らせて――そこに表示された発信者名を見た瞬間、わずかに表情を硬くする。

「もう気は済んだだろ。じゃ、俺はこれで」

 一方的に言い捨てて、教室の外へ。

「あっ、待って仁君。次の補習は金曜日の……」

「今日だけだって言っただろ」

 背後からの声を振り切るように、乱暴に教室の扉を閉めた仁は、改めて携帯に表示された発信者名を見つめる。

 それは、仁の『先輩』の名前。つまるところそれは、新しい『仕事』の話だった。


 薄暗い路地裏に、乾いた音がこだまする。肉が打たれ、骨が軋む音。人が人を殴るときの音だった。

「――ひいっ⁉ やめっ、やめてくれ! たのむ…………」

 中年の男が一人、派手に倒れこむ。腰を抜かしたまま、怯え切った瞳で後ずさる男の頬は、赤黒く腫れあがっていた。

「やめてくれぇ? おいおい、なんで俺らがこんなことしてると思ってんだよ。なあっ⁉」

「ひっ⁉」

 顔中にピアスを開けた、見るからにガラの悪い少年が、威圧するように一歩を踏み出す。

 それだけで怯え切った中年の男は、痩せた肉体を縮こまらせてうずくまる。

「おまえが借りた金返さねえからよぉ、こうして俺らが受け取りにきてやったんだろうが。やめてほしいって言うんだったらよぉ、先に出すもん出すのが筋だろうが。ええ、おい⁉」

蹲る男を中心に、十人ほどの少年たちが周りを取り囲んでいた。先頭に立つピアスの少年と同じような、威圧的な風貌の少年たち。それは、乱雑にカテゴライズされるところの、「非行少年」そのものであった。

「だからっ、言ってるじゃないか⁉ 今は無理なんだ! 再来月まで時間を貰えれば、元本分はどうにか――」

「ああっ⁉ ……まだわかんねえのかよ。おい、おまえら」

 ピアスの少年が、仕草だけで合図をかける。それだけで、周囲の仲間たちに意図は伝わった。皆それぞれにニヤニヤと笑みを浮かべながら、ゆっくりと男性に近付いていき、

「――っご――あぐぅ⁉」

 次の瞬間、男性の頭に、少年の蹴りが突き刺さった。横合いに吹っ飛んだ男性の身体が地面に転がり、無防備になった腹に、別の足が叩きこまれる。声にならない悲鳴が漏れるも、それも顔面ごと暴力によって踏み潰された。

「いいから、言う通り、払うんだよ! できねえなんて、舐めたこと言ってんじゃねえぞ!」

 あふれんばかりの暴力が、男性一人に降り注ぐ。十人余りの少年たちは、嗜虐の喜びに笑みさえ浮かべながら、男性をいたぶり続けた。

 いつ終わるとも知れない暴力の雨は、やがて終わり。地面に横たわり痙攣を繰り返す男性の有様は襤褸雑巾同然だった。

「さてと……おい、ちったあ払う気になったかよ?」

 ピアスの少年が、男性の髪を掴んで強引に顔を上げさせる。顔中腫れ上がらせた男性は、焦点の合っていない目で虚空を見つめながら、うわ言のように呟いていた。

「…………ゆる、して…………ゆるしてくれ……たのむ……」

「ちっ、だめだなこりゃ」

 その様子に、話が通じないこと悟ったピアスの少年は、ふと後ろを振り返って、言った。

「おいどうするよ、仁?」

 少年の見つめる先では、一人の少年が、壁にもたれたまま煙草をふかしていた。

 金髪と、端正な面立ち。学生服を隠すために大振りのコートを羽織った少年は、ここまで唯一人暴行にも参加せず、事の成り行きを静観していた。

 金髪の少年――一之瀬仁は、男性の有様を冷たい目で見つめると、ふうっとひと際大きく煙を吐き出し、ぽつりと呟いた。

「…………六時三十四分、○○駅」

「――っ⁉」

 仁の口から告げられたのは、何の変哲もない小さな駅の名前と、時刻。しかしそれを訊いた瞬間、男性の顔色が明らかに青ざめた。

「七時十分、▽▽駅。徒歩で学校まで移動。朝礼まで部活の自主練に参加。十九時に下校、二十分に▽▽駅。五十二分に○○駅。徒歩で家まで。帰宅は大体……八時十分前後、か」

「まっ、待ってくれ!」

 平坦な声で羅列される、細切れの情報。それが意味するところを察した瞬間、反射的に男性は仁へと手を伸ばした。

「動くな、よっ!」

 しかし、男性が起き上がろうとした瞬間、ピアスの少年の腕が男性の頭を掴み、そのまま地面に叩きつけた。

 それでも、歯を食いしばった男性は、必死の形相で叫ぶ。

「待って、くれ……お願いだ。娘にだけは、手を出さないでくれ!」

 仁が口にした○○駅は、男性の自宅の最寄り駅であり――▽▽駅は、娘の通う高校の最寄り駅だった。

 利用時刻も動向も完全に把握されている。つまりそれは、仁たちがその気になれば、文字通りどうとでもできるということだった。

「金は、あと一か月あれば用意できるんだ! 利息分もこの先必ず払う。俺にできることなら、なんでも……だから、娘だけは――っ!」

 地面に頭をこすり付け、恥も外聞もなく土下座し、息子ほどの歳の少年に情けを乞う男性。

「おいおい必死すぎかよ」

 その醜態に、周囲の少年から嘲笑が漏れる。

 そんな事を気にする気持ちは、もはや男性の中になかった。どうにかして仁に――この場の少年たちを取りまとめるリーダー格の少年に、猶予をもらう他ないのだ。それ以外に道はない。

 金は用意できない。無い袖は振れないから。今の男性にできるのは、ただみっともなく頭を下げて、慈悲にすがる事だけだった。

「……大変だよな、あんたも」

 はたして、その思いは通じたのか。仁の口から漏れたのは、同情だった。

「嫁さんに逃げられて、男手ひとつで一人娘を育ててきたんだろ。娘を良い学校にいれるために借金して、部活をさせるために会社の金にまで手をつけて。家族思いの良い父親だよ」

「……だったら――」

「でもさ。俺も仕事なんだ。あんたに貸した金を取り立てねえと、俺が『先輩』に怒られちまう。なあ、わかってくれるよな?」

 しかし、告げられた言葉は、淡い希望を踏みにじるような一言だった。

「あんたが払えないっていうんなら、それは仕方ねえよ。ああ、しかたない。しかたがないから――娘に払ってもらうしかないよなあ?」

「――っ! この、クソガキが――」

 最後の一言を聞いた瞬間、焼け付くような怒りが、男性の胸中を満たした。全身の痛みがどこかへ吹き飛び、激情に突き動かされるままに、仁に向けて駆け寄っていく。

 男性の目には、目のまえの少年が、悪魔のように映った。少なくとも人間ではない。こんな悍ましい事を平気で口にできるやつが、人間であるはずがない。

 今まで人を殴ったことなど一度もなかった男性は、その日初めて誰かに向かって拳を振るって――それよりも遥かに早く、仁の拳が男性の顔面を打ち抜いた。

 鼻骨がへし折れ、血が噴き出る。衝撃に脳が揺れて意識が遠のき、膝から力が抜け、一瞬の後には、男性は再び仰向けに倒れこんでいた。

「うわ、だっさ」

 あまりにもあっけなく返りうちにあった醜態に、嘲笑が上がる。腹を抱えて笑い転げる少年たちに囲まれながら、相変わらずの無表情のまま、仁は倒れこんだ男性の傍に膝をつく。

 嘲笑の渦のなかで、かき消されそうなほどに小さな声で、男性は呟いていた。

「……無理なんだ。本当に……っ! もう、金は無いんだ。どうにもできない……もう、もうどうしようもないんだよ……っ!」

 どれほど望んでも、金が降って湧いてくるわけじゃない。入ってくる収入から、ごくごく最低限の生活費と必要経費を差し引いて、残りを借金返済に回して――それだけで、もう赤字だ。

 どうにかできるものなら、自分が一番したいのだ。そのためなら、どんな努力だって惜しまない。けれど、どんなに頑張っても、状況が好転する方法すらわからない。

 未来のために努力できる人は幸せだ。「今」に何の不足もないのだから。寝食を惜しんで働いた。それでも足りないから、横領に手を染めた。そしていよいよ逃げ場がなくなり、反社の言いなりになって、この様だ。

 何も珍しいことはない。この国でよくある――でも幸せな奴らが見ようともしていない――ありふれた人生だった。

 仁の脳裏をよぎる、過去の記憶。愛しかった思い出は、怒りの中に消えていった。きっと、目のまえの男の末路も同じだ。だからこそ、仁は泣きじゃくる男性に向けて、優しく囁きかける。

「あんたの娘が助かる方法が、一つだけある」

 底なし沼に足を取られてしまった人を、本当の地獄に突き落とすために。

「簡単だ。あとひと月で用意できる金があるんだろう? なら、別口の短期借り入れで当面の返済を賄えばいい。そうすればあんたには猶予ができる。俺たちも、もう何もしないさ」

 そう言うと、仁は懐から数枚の紙を取り出した。それはいわゆる、借用書だった。男性が返さなければならない金額と同額を、あらたに借り入れる旨の契約書。そして、借り入れた金を既存の債務の弁済に充てる旨の約定である。

すでに必要事項の記入は済んでおり、あとは男性がサインすれば、この契約書は効力を発揮する。男性は、晴れて過酷な取り立てから逃れることができるというわけだ。あらたに膨れ上がった借金を抱えながら。

「……そ、れは……」

 どう考えても罠だ。学のない男性にも直観できた。それでも、心が傾いてしまう。暴力による痛みと、娘に危害が及ぶ恐怖から、目先の安易な道へと流されてしまうのだ。

 おそるおそる借用書を掴んだ男性は、専門用語が多くてわかり辛い契約書を必死に読み解きながら、震える声で尋ねた。

「これは……この借金の相手方は、誰なんだ? いったい、どこの……」

 最初、仁は答えなかった。無機質な目で男性を観察していた仁は、やがてゆっくりと身体を前傾させて、男性の耳元に口を近づけると、

「——なあ。それ、今のあんたに関係あるか?」

 ぞっとするほどに冷たい声で、そう告げた。

 言外に告げていた。男性が契約を断った瞬間に、男性の周りを取り囲む少年たちは、もう一度動き始めるだろう。今度こそ男性の精神をすり潰し、強制的に従わせるために。そしてその暴力は、間もなく娘にも向く。それも、限りなく悍ましく、効率的な方法で。

 最初から、男性には選択肢などなかったのだ。

「……ほらよ、ペン」

 無造作に手渡されたボールペンを受け取り、男性は涙ながらにサインしていく。手が震え、字が滅茶苦茶になるが、取り繕う余裕もなかった。

「朱肉はここだ」

 親指を朱肉にあて、拇印を押す。それで契約書は完成した。

 男性の手から契約書を受け取った仁は、パラパラと内容を確認していき、

「オーケー。契約は完了だ。おまえら、今日はこれで解散だ」

 瞬間、一斉に歓声が沸いた。

「だあ~、ようやく終わったあ。だりい~」

「おい飯行こうぜ、腹減ったわ俺」

「まじで? ショウさんの奢りっすか?」

「調子のんなバーカ」

 陰鬱な雰囲気が嘘のように、楽しげに談笑しながら、少年たちは帰路につく。薄暗い暴力を振るった手で友人たちと肩を組みながら、『普通』の学生のように笑っていた。

「ん? おい仁。どうした、飯行かねえのか?」

 ふと、先頭を歩いていたピアスの少年が、自分たちのリーダー格たる少年がついてきていないことに気付く。

「……ああ。俺は、先輩にこれ(借用書)を届けにいく」

「あっそ。じゃあ、また今度な」

 それきり、興味もなくなったピアスの少年は、他の少年たちを伴って去っていった。

 その背中を見送った仁は、力なく項垂れる男性を一瞥して、何も言わずに歩き始める。

「――悪魔だ、おまえたちは」

 しかし、背後から投げつけられた言葉に、足が止まる。

「どういう育ち方をしたら、そんな人間になるんだ?」

 これから更なる地獄に堕ちる男性は、ごく当然の怒りを込めて、呪詛を零す。

「……さあな」

 けれど、それを向けられる仁の表情には、何の変化もなかった。

「ただ……もし『普通』に生きられたら、誰もこんなふうにはなりたいとは思わねえよ。あいつらも、俺もな」

 それだけ。過去に置き去りにした感傷を振り払うように、振り返ることなく薄暗い路地裏を後にした。

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