5
思い出すのは、一年前のこと。初めて出会った頃の一之瀬仁の、背筋が凍るような冷たい瞳。
誰も彼に近寄ろうとせず、彼もまた他人を拒絶していた。ガラの悪い大人たちに囲まれて、見る度に生傷が増えていた。明らかに学生の小遣いやバイト代程度では手に入らないような、高価なアクセサリーで飾り立てた容貌は、否応なく目を奪われるほどに美しく、同時にひどくおぞましく映った。
そんなことではダメだ、と。あるとき深月は幼い正義感に任せて仁に注意した。
『…………で?』
長い沈黙の果てに返ってきたのは、そんな返答とも呼べないような一言。
けれど、そのわずか一音が、これ以上ないほど明確に拒絶の意思を伝えてきた。
それでも諦めなかった。深月から見れば、彼は自らの人生を棒に振ろうとしている。止めることこそが、人として当たり前の責務だと思った。
『で、ですからっ。あのような粗暴な方々と交流を持つのはおすすめできません。それに、あなたの持ち物。お金はどこから出ているのですか? まさか、犯罪行為など――』
『だからさ――そうやって俺に説教垂れて、あんたは何がしたいわけ? 関係ないだろ、あんたには……ああ、それともなに? それ、あんたなりのラブコール? 俺と仲良くしたいんだ』
言われて、言葉に詰まった。
自覚があったかどうか、定かではないけれど。院長の娘として何不自由なく温室で育った深月とって、仁はあらゆる意味で異質な存在だった。
だから、初めて会った瞬間から、思わず目が彼の姿を追っていた。いつしか、心も彼のことばかり考えるようになっていた。
それを一目ぼれと呼べるのかは、わからないけれど。少なくとも深月は彼に関心を抱き、だからこそ目に見えた破滅へと突き進む少年を止めようしたのだ。
少年は愚かで、自分の振舞いが世間からどういう評価を受け、どういう結果につながるのかわかっていない。だから、私が教えてあげなければならない。
そんな手前勝手な正義感に突き動かされるまま、深月は仁の心に踏み入った。
『そうした粗暴な振舞いの一つ一つが、あなたの価値を貶めるのです。価値のなくなった人間を、社会は受け入れてくれない。あなたが思っているほど、世間は甘くないんです。このままいけば、あなたは必ず将来後悔します。あなたが幸せになるために、今すべきことは、勉学に励み、善良な学友と交流を深め、己の価値を高めることです。粗野な言動も不適切な交友も、犯罪まがいの行いも、すべて自分の幸せを自ら台無しにする行為です。あなたのご家族だって、今のあなたを見れば落胆するのではありませんか?』
『――――はっ』
深月が語った正論を、仁は笑った。嗤ったのだ。
『あんたはさ……幸せなんだな』
『はっ? 何を突然? 私は、望む幸せを得るには然るべき努力と態度が求められると……』
『俺は……幸せになりたいなんて思っちゃいない』
思いもよらなかったその言葉に、深月は目を見張る。
世界を知るには幼く、深月という少女は恵まれ過ぎていた。
彼女は知らなかったのだ。この世界に、幸せを望むことすらしない人間がいると、想像したことなどなかった。
『将来だ? 知るかよそんなもん。明日死んだって、俺は構わない。それとも、あんたが殺してくれるのか? そっちのほうが、これ以上恥を晒さずにすんでいいかもなぁ』
冗談めかした口調とは裏腹に、深月を睨む仁の双眸は、ぞっとするほど冷たかった。
拒絶、などと生易しいものではなかった。仁は、まるっきり異質なものを見るような目で深月を見つめていた。雨の日に石塀の上を這いずるナメクジを見るような。おぞましいモノに対する嫌悪の瞳。
深月の目には、仁がまるで理解できないおぞましいモノとして映ったように。仁の目には、深月こそがおぞましく映っているのだと、そのときようやく悟った。
『……どうでもいいんだよ。何もかも、ぜんぶ』
仁と出会って、深月は初めて知ったのだ。幸せを望むことができる。それ自体が、その人が今幸せである証左なのだと。
「幸せになるために努力すべき……今思えば、なんて傲慢な言葉でしょう」
不幸の沼で、これ以上沈むまいと足掻く人は、いつかの幸せなど求めはしない。努力なら、とうの昔にし尽くしている。それでも今在る不幸から脱せられないから、彼らにとって幸せは、決して手の届かない天上の果実に他ならない。
それでも手を伸ばすなら、著しい代償を払うことになる。
そうして、一之瀬仁は母親を失った。
「それでも……先生の言葉は、一之瀬君に届いた」
けれど、高崎茜は、一之瀬仁を底なしの不幸から救い上げた。
今でこそ、屈託なく笑うようになった仁だが、それは茜が彼に向き合い続けたから。
ただの一度の会合で恐怖に竦んでしまった深月では、できなかったこと。
「だから、仕方のないことなのでしょう………………でも――」
深月は、仁を理解できなかった。それだけのことなのだとしても、
「私が補修に参加した理由くらい…………そろそろ気付いてくれてもいいじゃないですか」
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