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「――というわけで、ここの角度がわかったから、後はさっきの公式を使って……」
時刻は十七時半過ぎ。七月とはいえ、ぼちぼち日も傾き始めるころ。仁と深月の二人は、茜による問題解説をいたって真剣に聞いていた。
高校の授業で扱うレベルよりも、少し上。基本が十分に身に着いた二人だからこそ、より上を目指すために、茜は張り切って授業を行っていた。
「じゃあ、仁君! ちょっと、この問題やってみて」
「うぃーっす」
「返事はもっとはっきりとなさい!」
「さーせん、委員長」
気だるげに席を立ち、茜が差し出すチョークを受け取った仁は、そのまま黒板に回答を書き連ねていく。緊張感の欠片もない態度とは裏腹に、その動作は淀みなく、淡々と解き進める。
「証明終わり、っと。できましたー、先生」
「うんうん。大体オッケーだよ。ちゃんと聞いてたんだね」
「俺、こう見えて真面目ちゃんなんで」
「うん、知ってるよ」
ツッコミ待ちのボケだったのだが、大真面目に返されてしまった。閉口する仁を余所に、茜は黒板に書かれた仁の回答を精査していく。
「最終的な答えも正解だし、途中式も大筋で合ってる。あと少し気になるのは――っあ」
不意に、茜の身体が揺れた。
何かに躓いたように、突然グラつく茜。目を剥く深月の視線の先で、前のめりに倒れていき、
「――っと。危ね」
転んだ茜を、仁の腕が抱き留めた。右腕で倒れる身体を受け止めて、左腕で支える。負担が少ないように配慮した、手慣れた動作だった。
常の軽薄な態度を崩さず、それでいて成人の体重を軽々と受け止めた仁は、冗談めかした調子で笑って見せる。
「どうしたんすか、先生? 何もないところで躓くなんて、けっこうどんくさい――」
「………………」
「……先生?」
仁の腕に体重を預け、力なく項垂れる茜は、軽口にも答えない。腕に伝わる体重は、やけに重く、そのまま動く気配もない。明らかな異常。
仁の顔から、笑顔が消える。飄々とした雰囲気は消し飛び、一転必死の形相で茜に――
「…………わっ、ごめん。ちょっとボーっとしちゃった」
そして、茜は不意に起き上がると、照れくさそうに笑ってみせた。弾かれたように立ち上がり、数歩離れて仁から距離を置く茜の顔は、心なしか赤い。
「いやー、ごめんね。ちょっと躓いちゃった。どんくさいね、私。でもびっくりしたよ仁君。意外と力強いんだね。私、最近ちょっと太っちゃったのに、ぜんぜん平気で——」
「もう、びっくりしましたよ先生……」
平然とした茜の様子に、深月もほっと一息つく。
けれど、仁の視線は依然険しかった。
茜を抱き留めていた腕を、上下に揺らす。何か違和感を確かめるような、そんな動作を繰り返した末に、不意にぽつりとつぶやいた。
「先生、いま体重何キロっすか?」
「ぅえっ⁉」
「……一之瀬君、いくらなんでも女性にその質問は配慮に欠けるわよ」
「太ったって、言ってましたよね? さっき受け止めた感じ、むしろ前よりも軽かったですよ」
「そっ、そう? それは嬉しいなぁ、けっこう太ったの気にしてたのに……」
あからさまに目を逸らし、動揺を露わにする茜。その様子を見て、さらに視線を険しくした仁は、ずんずんと茜に歩み寄っていく。
「じっ、仁君っ⁉ だめだよそういうの私たち先生と生徒で――」
「動かないで」
そっと、優しく額に触れる掌があった。
額から伝わる穏やかな温もりに茜が目をぱちぱちさせる一方で、仁はいたって真剣な顔だ。
「熱は……ないか。なら、先生。さっきのアレ、ほんとに転んだだけっすか?」
「そっ、そうだよ? 私ってほら、どんくさいから……」
「眩暈とか、立ち眩みとか。そういうのは?」
「あの、ほんとに私は大丈夫……」
「……先生」
腰を落とし、茜と目線を合わせる。二〇センチ以上の身長差がある二人だが、今この時だけは、仁は真っすぐに茜の目を覗き込んでいた。
「先生は俺を裏切らない、俺に嘘を吐かない。そう言ってくれたじゃないすか」
強引で、それでいて寂しそうな。必死に訴えかけるような眼だった。決して茜を逃がさないと、至近距離から覗き込んでくる真っすぐな視線に、茜は「あっ、うぅ」とか謎のうめき声を漏らしていたが、やがて観念したように目を伏せた。
「……ほんとに、熱とかはないんだよ? ただ、最近、たまに眩暈がするときがあるっていうか。ほんと、たいしたことじゃないんだけど……」
「……委員長、どうなんだ?」
そこで、仁は深月へと視線を向ける。
病院の院長の娘である深月は、深刻な顔で考え込んでいた。
「私も正式な医師ではありませんから、詳しいことは言えませんが……この夏の暑さと、昨今の先生の御多忙な状況を考えれば、熱中症等の危険は十分考えられるかと」
「決まりだ。先生、深月。今日の補修はこの辺でお開きにしよう」
「でっ、でも。まだ最後まで……」
「今度でいいよ。先生が元気なら、何度だってできるんだ。だから、今日くらい休んでくれ。なっ? 深月も、それでいいだろ?」
「当然ですね。健康こそ全ての基本。大事無ければそれでよし。不安があれば休むべきです」
「…………ごめんね、二人とも」
申し訳なさそうに俯く茜に、深月はそっとスポーツドリンクを差し出す。
「差し上げます。水分補給用に、ひとまず持っておいてください」
「……うん。ありがと」
複雑な表情。けれど、純粋な好意を無下にするのも悪いと思い、茜は一瞬の躊躇の後に差し出されたペットボトルを受け取った。
その横で、仁は何やら鞄の中を漁っていた。
「先生って、チャリ通でしたよね?」
「えっ? うん、そうだけど……」
「送っていきますよ」
言って、仁はカバンの中からあるものを取り出した。蔦のようなレリーフが施されたシルバーのキーホルダーと、大き目のキー。
いかついバイクキーを片手に、仁は悪戯っぽく笑う。
「後ろに女の子乗っけるの、慣れてるんで」
「——いやいや、そんなっ⁉ ダメじゃないかな、二人乗りなんて⁉」
「俺、中免持ってるんで。法律的にはセーフっす」
「ほらっ、私の自転車置き去りになっちゃうし⁉」
「明日の朝も俺が迎えに行きますよ。そんで放課後回収して帰ればいいでしょ」
「……でも、先生と生徒で、そういうのは、その……」
「このクソ暑いなか病人一人で帰すのは、人として寝覚め悪いんで」
「…………でも、めいわく――」
「迷惑なんてこれっぽちも思わない」
顔を赤くしてしどろもどろに言い訳を重ねる茜に対し、仁は至極冷静に退路を塞いでいく。
それに、と。
「久しぶりに、俺がひよりに会いたいんで。お迎え、俺も行かせてもらえないっすか?」
普段のチャラついた雰囲気がウソのような、真摯で優しい微笑みと共に、仁はとどめの一言を放つ。
断る口実は悉く論破され、遠慮するには倒れかけた事実がある。そこにさらに「個人的なお願いを聞くだけ」という逃げ道まで用意された。
「……そういう言い方は、ずるいよ?」
「知らないんすか? ずるい男ってモテるんすよ」
「もう。女の子を泣かせる悪い男になったらダメだよ?」
そして、茜は最後に諦めたように溜息をつくと、力なく微笑んだ。
「じゃあ、お願いしてもいいかな、仁君?」
「はい。もちろん」
笑って、笑い合って。見つめ合う二人を傍らで眺める深月は、一人、曖昧に微笑んでいた。
「つーわけで、委員長。今日はこの辺で」
「……ええ。そうですね」
茜の手を引き、補修室を後にしようとする仁は、最後に一度振り返った。
「また、明日な」
ただ一瞬だけ、仁の笑顔が深月に向けられる。けれど、次の瞬間にはまたその笑顔は茜のものになるだろう。
その事実が、深月の心を締め付ける。それでも、仕方ないんだと自分に言い聞かせて、深月は笑い返して見せた。
「ええ……また明日」
最後に茜も恥ずかしそうに手を振って。そのまま仁に手を引かれて出ていった。
誰もいなくなった教室で、深月はさっきまで仁といっしょに挑んでいた問題用紙を指でなぞる。
「……仕方のないことです。あなたを変えたのは、高崎先生で。私は……あなたに何もしてあげられなかった」
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