22

 そう言って、茜は仁の手を取った。決して強い力ではなかったけれど、それでも仁は手を引かれるままについていく。そして、二人は夕方にも訪れた公園に、再び足を踏み入れた。

「見て、仁君。今夜は、空が綺麗だよ」

 仁は、夜空が綺麗だと思ったことはなかった。都会の空はいつも曇り空で、星明りもまばらだ。ただ暗いだけの夜空に、何の美しさがあるのだろう。何より、真っ暗な闇の中で必死に輝こうと瞬いている星を見ると、不思議と心が重くなった。

 星がどんなに頑張っても、夜の闇が消えることはないのに。小さな星が太陽になろうと輝いても、いつか燃え尽きて消えるだけ。星の光が地上を照らすことはなく、人の心に星明りは届かない。

 そうして、いつしか夜空に星を探すことすら止めてしまった。一之瀬仁は夜空が嫌いだった。


 ああ、けれど。


 今日の夜空は、驚くほどに澄み渡っていた。夜の闇は薄く。星がはっきりと見える。数え切れないほどの星々が寄り集まって、真っ黒な夜空を銀色に彩っていた。

 夜の闇が、晴れることはないのかもしれない。それでも、深い夜のなかにあっても、星は確かに輝いていて。満天の星空の下、楽しそうに笑う茜は、ただ美しかった。

「……ああ。本当に、綺麗だ」

 好きだ。愛しい。ずっとあなたと一緒にいたい。それだけでいい。他に何もいらない。 

 ただ、愛する人と一緒にいる。それだけのことで、人は世界で一番幸せになれるのだと知った。

(あなたが教えてくれたんだ、先生……)

 家が貧しかった。借金の返済に追われる毎日。朝から晩まで働いては物も言わずに布団に倒れ込む両親。仁はせめて両親に負担をかけないよう、静かにしていることを覚えた。家の中に笑い声が響くことはなく、ヤクザの罵声と母の泣き声だけが日常だった。

 そんな毎日を繰り返して。ある日、母が自殺した。父は笑わなくなった。仁は、「幸せ」の意味がわからなくなった。

 母の借金が消えて、生活は楽になったけど。そこには母がいなかった。

 お金があれば幸せなのか? なら、母さんはどうすれば幸せになれた? 愛があれば幸せなのか? なら母さんはなんで死んだんだ?

 考えても、何もわからなかった。誰も教えてはくれなかった。

そのうち、考えることをやめた。面倒くさくなった。死にたかったわけじゃないけれど、生きる意味は分からなかった。そして、何もかも捨てて自暴自棄になっていった。

 それでも、手を取ってくれた人がいた。

『あなたは幸せになるために生まれてきたの。だから、自分を嫌わないで。幸せになることを諦めないで!』

 何度拒絶しても、馬鹿みたいに付き纏って。捨てたはずのモノを、強引に押し付けてきた。 それが、心地よかった。

 もう一度、「幸せ」を願ってもいいと、思えるほどに。

「ほんとうに、月が綺麗……」

 目を輝かせながら、茜は夜空の月を見上げていた。星々の光の中で、月は一際大きく輝いていた。

 ああ、そうだとも。たとえ星の明かりも見えない夜だって。月はいつだってそこに在る。そこに在って、世界を照らしてくれるんだ。

「……死んでもいい、とは……もう言えないな」

 誰だっただろうか。名のある文豪の言葉だったとは思うけれど、思い出せない。もう少し勉強しておけばよかったな、なんて思いながら、仁は茜の隣に立った。

「先生、俺さ……」

「うん、なに?」

「生きたいんだ。遅くなったけど、ようやく、素直にそう思えた」

 愛しいなんて言葉じゃ、きっと足りない。ただ、隣にいることが幸せで。一緒に見上げる月が綺麗だっていう、それだけのことでも満たされて。これ以上の幸福を想像することもできないから。だから、ここで死んでもいいって思えるんだ。

「だから、あんたにもそう思ってほしい」

 月下、二人は見つめ合う。言葉よりも雄弁に、口付けよりも熱く。ただ、目と目で通じ合うような。

「今はまだ、俺はあんたの隣に立てない。けど、必ずあんたにふさわしい男になる。もう誰も傷つけず、誰かを幸せにできる人になって――先生を迎えに行くよ」

 手を握る。決して傷つけないように優しく。離れた後も、温もりを思い出せるように強く。

「そしていつか、先生と遥と玲奈と由奈とひよりと、俺で。一緒に生きていきたいって思う。それが、今の俺の夢なんだ。だから先生、待っててくれるか?」

 足りないんだ。言葉だけじゃ。手を握っても、眼を見つめても。伝わった気がしない。

 今確かにこの手の中にある「幸せ」を離さないために、どうすればいいのかわからない。

 だから、結局、曖昧な言葉に頼るんだ。掌の「幸せ」が、もう二度と、どこにもいってしまわないように。

「先生、俺は……先生のことが――」

「――ありがとう、仁君」

 茜が、笑った。心の底から幸せそうに。穢れを知らない少女のような笑みは、月の光に照らされて、白銀色に輝いて見えた。

 頬を流れ落ちる涙は、星のようだった。茜は、泣いていた。


「——ごめんね」


 ぼつり、と。そう呟いて。茜が倒れた。

 仁の胸に顔をうずめるように、前のめりに倒れた茜を、仁が受け止める。

「……先生?」

 答えはない。ばちばちと、不思議そうに目を瞬かせた仁は、腕のなかで動かない茜を優しく揺らし、何度も呼びかける。

「…………せんせい?」

 答えは、ない。返ってくることは、もうない。



 優しい人は、幸せになってほしい。

 別に、善人だけが天国に行って、悪人は地獄に落ちろ、とか。そういう意味じゃなくて。

 せめて、誰かに優しくしたぶんだけ、その人も報われてほしいんだ。

 金持ちじゃなくていい。地位とか名誉とかも望まない。

 ただ、毎日ちゃんとご飯を食べて。友達と遊んで。家族と仲良くして。いつか、好きな人と結ばれて。子どもができて、孫もできて。そしていつか来る終わりの日にも、大切な人たちに囲まれて。

 ああ、幸せだったなって。笑って死ねるような。そんな人生を送ってほしい。


――そう、思ってたんだ。


 二〇××年、七月十五日、二十二時三十四分。高崎茜(三十二歳:市立東山高校教職員)、急性心不全で昏倒。同行していた一之瀬仁(十七歳:同校生徒)の通報により、救急車で早川医院に搬送される。心筋梗塞と診断され、同病院で緊急手術が行われるも、心臓疾患の他に、脳を含む全身に無数のストレス性疾患が判明。過労によるものと推測。手術自体は成功するも、術後も意識不明の重体。

 そして、三日後の同月十八日、明朝四時五十二分――死亡。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る