21
「――じゃっ、俺はこの辺で失礼しますね」
玄関で靴を履いた仁は、最後に振り返ってそう告げた。
夕飯を食べ終わり、時刻はすっかり夜だ。さすがにそろそろお暇しなければならない。
「…お、兄ちゃ……ん……」
「ひよりもお休み。また明日な?」
ここまで頑張って起きていたひよりだったが、さすがにおねむの時間らしい。それでもこうして見送りに来てくれたのだから、嬉しい話だ。
ひよりの頭を優しく撫でて、仁は最後に茜のほうを向いた。
「先生、今日はお世話になりました」
「……ううん。こっちこそ、いろいろごめんね?」
「いやいや。今日めっちゃ楽しかったんで、こっちのほうがありがとうっすよ」
そうして笑い合って終わり――のはずだった。けどどういうわけか、二人の間には気まずい何かがあった。何と言うか。もう別れなければならない時間なのに、まだ一緒にいたいような。名残惜しいような、そんな気持ち。年頃の中学生のような甘酸っぱい感傷に、茜(バツイチ子持ち)と仁(元ヤンチャラ男)はらしくもなく戸惑っていた。
気まずい沈黙が流れる玄関。その沈黙を破ったのは、二人のどちらでもなかった。
「お母さん! 一之瀬さんを送っていくべきかと!」
居間からぴょこっと顔を出し、遥がそう言ってきた。
「遥ちゃんっ⁉ あの、でも……」
「さすがにダメだろ。もう夜も遅いし――」
「そいつだって未成年なんだから、先生として送っていくべきじゃないかしら?」
遥の下から、新たに玲奈の頭が生えてきた。
「いや、先生のほうが危ないだろ。こんな時間に女性一人帰すわけには――」
「駅はすぐそこだから平気。それよりあなたが駅で補導されるほうが問題」
玲奈の下からさらに由奈の頭まで生える。
「いやされねえよ。こんな時間帯で一々取り締まるほど警察は暇じゃな――」
「うっさいわねっ! つべこべ言わずに連れてけばいいのよ!」
「御託はいい。男として行動でリードすべき」
「夜道で二人っきりの時間……素敵ですっ!」
正論なんぞ知ったことかと言わんばかりのごり押し。しかも三人分。
そのあまりの剣幕に、仁も茜もしばらく言葉を失う。けれど、それで顔を見合わせてみたら、なんだか急におかしく思えて。肩の力が抜けた二人は、ふっと笑い合う。
「すいません。少しだけ、付き合ってもらえないっすか?」
「うん。私も、もうちょっとお話したかったから」
いよいよ眠気が限界に来たらしいひよりを遥が預かって。そして二人は、夜の道へと繰り出した。
◇
「なんか、変な感じだ。騒がしい連中に囲まれてたから、静かなのに違和感ある」
「あーわかる。なんかちょっと寂しくなるよね」
「俺はともかく、先生はこれからあそこに帰るんすよ?」
「ふふっ、そうだった」
「大丈夫っすか? 眠れます?」
「実は毎日大変なんだよ? 遥ちゃんと玲奈由奈ちゃんは、しょっちゅう喧嘩しちゃうから」
「迷惑な姉たちっすね。幼稚園児の妹の前で」
「ふふふっ、ほんとにね。でもなんだか楽しくって、つい許しちゃうの」
「だめっすよ。ひよりに悪影響が出たらどうするんすか」
「出ちゃうかな、どう思う?」
「とりあえず玲奈の口の悪さはダメでしょ。ひよりにキモいとか言われたら俺卒倒しますよ」
「確かに。玲奈ちゃん、ずいぶん仁君に辛辣だよね。どうしたんだろ?」
「由奈は由奈で中々イイ性格してますよね。あのエゲつないイカサマ絶対あいつ発案でしょ」
「でも仁君すごかったよ。あのゲームで、あんなに簡単に勝っちゃうなんて」
「合コン百戦無敗は伊達じゃないんで」
「そんなにっ⁉」
「すいません盛りました。あんま合コンいかないっす。先輩に呼ばれたときくらいしか」
「……一応不純異性交遊はダメなんだよ?」
「大丈夫っすよ。もうそういうのは辞めたんで」
「そっか。よかった。遥ちゃん、そういうの厳しいから。バレたら遥ちゃんにも嫌われちゃうかもよ?」
「マジすか。そりゃキツイなー。せっかくちょっと仲良くなれたのに……ああでも遥といえばあれっすね」
「ん?」
「めっちゃ声デカいっすね」
夜道に、笑い声が響いた。
仁も、茜も。二人して長女の圧倒的な声量に対するリスペクトの気持ちを堪えきれなかった。
ひとしきり笑って、二人はもう一度話始める。
「でも、遥はほんとに良い子ですね。お姉ちゃんとしてみんなを引っ張って。先生のことも支えようとして。料理、たぶんめちゃくちゃ練習したんでしょ?」
「うん。本当に、遥ちゃんにはいっつも助けられてる。申し訳ないくらい」
「いいんすよ。子どもは親の手伝いさせてるくらいが丁度いいんすから。あれ、案外子どもも楽しいんすよ? 何より、親の役に立ってるって実感が嬉しくて」
「……そっか。そういうこともあるのか」
「はい。だから今度は、ちゃんとありがとうって言って、褒めてやってください」
「うん、そうだね。……ああでも、それだったら私、遥ちゃんに酷いことしちゃったかも……」
「別にいいじゃないっすか。これからちゃんと伝えれば」
「……ふふっ、そっか。じゃあ仁君も、ありがとう」
「……急に何のお礼?」
「いつもありがとうのお礼。仁君はいつも、私に大事なことを教えてくれるから。私のほうが年上で、先生なのにね」
「……大袈裟っすよ」
「そんなことないよ。今日だって、私、玲奈ちゃんがネイルに興味あるのとか、気付かなかったもん」
「あれはあいつも隠してましたから。先生に負担かけないように、黙ってたんでしょ。まだ小学生なのに、いい子じゃないすか」
「うん……でもやっぱり、もう少し好きなことさせてあげたいな。せめて、変に遠慮して好きなこと隠したりしないで済むように」
「……そっすね。不自由はそりゃありますよ。でもたぶん、あいつらにとって何より嬉しいのは先生といることなんだと思いますよ」
「そう、なのかな?」
「はい。由奈とかめっちゃわかりやすいですよ。基本無表情なのに、先生に話しかけられたときだけ、眼がちょっと開くんです。先生を守ろうとして、俺にイカサマぶつけてくるくらいだし、たぶん相当マザコンですよ」
「ふふっ、仁君、イカサマのことすっごく根に持つね」
「いや割とマジであれ衝撃でしたよ」
話は途切れることなく。いつまでも話していられるような気さえした。
ほんの小さなことでも楽しいから。二十四時間のうちのほんの些細な出来事でも、二人で分かち合えば、それはたちまち素敵な思い出に変わるのだ。
何も無い夜道を、二人っきりで歩く。それだけ。何も特別なことはない。けれど、こんな何の変哲もない時間が、今は愛おしい。
二人ともそう思っていたし、相手もそう思ってくれると互いに信じていた。
だからこそ、茜はふと、何でもないような調子で問いかけた。
「ねえ、仁君。私の家、楽しかったかな?」
「めっちゃ楽しかったっす」
「また行きたいって、思ったりする?」
「何度でも」
「……ずっと居てもいいって、思ってくれる?」
「……ずっと居たいって、思ってる」
ずっと、ずっと一緒に居たい。その願いが叶うなら、どんなにいいだろう。
けれど、今は無理だ。社会が、法が、世間が許さない。一時の感情に流されて、誰かの人生をめちゃくちゃにするのはもうたくさんだ。
それに何より、子どもたちのことがある。今の仁は、どこまでいっても学生でしかない。定職に就いているわけではないから、安定した収入があるわけではない。現状では、あの子たちを守ってあげられない。
だから必要なのは、勉強することだ。勉強して、良い大学を出て、福利厚生のしっかりした安定した企業に勤めて。大事な人たちといっしょに生きる。
そんなありきたりな人生を手に入れる。
幸せの意味すらわからなかった馬鹿野郎が、初めて心の底から望んだ「幸せ」の形が、それなのだ。だから、必ず――
「——あっ」
ふらっ、と。茜の身体がグラついた。
反射的に仁の身体が動き、抱き留める。
決して倒れ込むような勢いではなかった。それこそ、少し足の力が抜けたような、小さな揺れ。それでも、昼間のことがあっただけに、仁は心配そうに眉をひそめる。
「先生? どうしたんすか。やっぱりどこか……?」
「……ううん。ぜんぜん平気。大丈夫。それよりさ、仁君……最後にちょっと、寄り道しよう
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