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「……それじゃあおまえたち、夏休みだからってあんまり羽目を外しすぎるなよ。来年は受験生なんだからなー」

 担任のやる気のない挨拶と共に、今学期最後のHRが終わる。瞬間、爆発的な歓声と共に、生徒たちは思い思いに動き出し始めた。友達の席に直行し、夏休みの予定を話し合う者。与えられた自由を謳歌し、さっそく遊びに繰り出そうとする者。さまざまだ。

 そんななかを、一人足早に教室を出ていこうとする生徒がいた。

 誰にも気付かれないまま出ていこうとしたその男子生徒を、丸宮樹と浅野裕斗が見咎めた。

「待てよ、仁……その、なんだ。せっかくの夏休みなんだしさ、一緒にボウリング行こうぜ」

「そうそう。こいつ、この前スコア更新したんだよ」

「おうよ。このままおまえのスコアだって抜いてやるさ。だからさ……おまえも――」

「――わりぃ、俺これから予定あんだわ」

 教室から出る寸前、扉の傍で振り返る。明るい金髪に、左耳のピアス。派手な見てくれに違わぬ、軽薄な笑み。薄っぺらな笑顔を顔に張り付けて、一之瀬仁は笑っていた。

「だから、また今度な」

 それっきり、振り返ることはなく。沈痛な表情で俯く樹と裕斗は、廊下の人込みへと消えていく背中にかける言葉を、何も思いつかなかった。

 夏休みの希望に浮かれる生徒たちの波に、流されるままに進む仁の顔には、先ほどの笑顔は影も形もなかった。


   ◆


 不思議な気持ちだった。例えて言うなら……そう。とても楽しい夢から覚めた朝のような。

 大事な思い出があったはずなのに、それがそっくり抜け落ちたまま、戻ってこないもどかしさ。けれどやがてそんな焦燥すらも無くなって、いつか楽しい夢があったことすら忘れていく。

 何かが欠け落ちたような空虚な感傷を抱えたまま、仁はただ歩いていた。

 別に目的地があったわけではない。ただ、歩き続けているほうが気が楽だった。

 昨日の朝から。いや、あの夜に病院のベッドに横になった先生の姿を目にしてから、ずっとこんな気持ちだった。


「――直接的な症状は心筋梗塞です。ですが、心臓以外にも複数個所の血管が脆くなっていたようです。おそらくは過労とストレスに由来するものかと……ともかく、止まっていた心臓は動き始めましたが、それ以上に急激な血流の変化による各部へのダメージが深刻です」

 静寂に包まれた深夜の病院に、時折すすり泣く声が響いていた。

 あの夜、家族である高崎姉妹と、付添人として病院へ同行した仁は、早川院長から茜の容態について説明を受けた。

 過労とストレス。それが限界に来て、倒れた。それだけの話だ。医学の心得なんて欠片もない仁たちでも、そのくらいのことはわかった。

 だから、一番前に座った遥と仁の後ろで、由奈と玲奈はずっと二人で泣いている。ひよりはとうの昔に泣きつかれて眠ってしまった。

 本当なら、遥だって泣きたいだろう。それでも、遥はお姉ちゃんだから。妹たちを背中に庇って、一人で震えながら涙を堪えていた。

 そんな遥の震える手を、別の手が包み込んだ。仁だった。遥の隣に座る仁は、この場でただ一人、目に涙を浮かべることすらしていない。

 辛くないわけではない。ただ、自分が泣いていい場面じゃないと、わかっていた。せめて、一人気丈に振舞う遥を支えてあげられるように。仁は、ずっと遥の手を握っていた。

 その僅かな温もりを支えにして、遥はなけなしの勇気を振り絞った。

「……助かるんですか?」

 震える声で吐き出された質問に、院長は鎮痛な面持ちで首を横に振った。

「心臓だけでなく、脳の血管もだいぶ脆くなっていたようです。そこに今回のことがあったため、脳へのダメージが深刻です。万が一命が助かったとしても、目を覚ますかどうかは……」

 今度こそ、限界だった。堰き止めていた涙は決壊し、遥は力なく俯いた。

 悲痛に嗚咽をもらす遥を、仁は無言で抱き寄せる。遥も、抵抗しなかった。促されるままに、遥は仁の胸に顔を埋め、初めて涙を堪えることをやめた。

 自分に縋りついて泣く少女を慰めながら、仁は一言たりとも言葉を発することはなかった。ただ、時折震える遥の背中を、あやすように撫でて。結局、早川院長が退出を促すまで、高崎姉妹は泣き続けていた。


 それが、もう四日前のこと。

 茜が倒れてから三日間、仁はずっと病院に詰めていた。姉妹たちの傍を離れるわけにいかなかった。特にひよりは、ふとした拍子にパニックを起こす。そんなとき、姉妹の誰かか仁が抱きしめてやらないとどうにもならない。他の姉妹に、泣き喚く末っ子をあやす余裕はなかった。

 三日間の間に、仁と姉妹たちの間でろくな会話はなかった。互いにそんな気分でもなかった。

 唯一、茜の父であり姉妹たちの祖父にあたる人物が病院を訪れた際には、遥といっしょに諸々の説明にあたった。かなり年配の人物だったが、愛娘の危篤な状況にも「そうか」とだけ答えてそれっきりだった。

 けれど、仁は知っている。あのお爺さんは、茜がいなくなった後の始末を進めていたのだ。葬儀の手配や遺産整理。その他諸々の作業を一手に担い、昨日早朝に茜が息を引き取った後も、姉妹や仁はそれらのことに苦労せずにすんだ。

 せめて、娘が愛した孫たちの負担を少しでも減らしてあげられるように。動いてくれたのだろう。

 優しい老人だった。強い人だった。部外者であるはずの仁にも、どういうわけか好意的に接してくれた。聞けば、茜からの近況報告で度々仁の話が上がっていたらしい。

「娘は君のことをよほど気にかけていたようだ」と言って、力なく笑った。仁は、どう答えていいのかわからず、曖昧に微笑んで誤魔化した。

 出来事といえば、それくらいだ。後の時間は、ひよりが起きている間は、遥といっしょにずっとひよりの傍にいて。ひよりが寝ている間は、やはり遥に付き添った。

 由奈と玲奈のことも心配だったが、拒絶されていた。仁だけでなく病院の看護師さんやお爺さんのことも寄せ付けないらしい。双子は常に二人だけで寄り添い合いながら、ただ無言で仮眠室の端のほうで座っていた。

 正直、健全だとは思わなかった。それでも、遥のそばを離れるほうが良くないとはわかった。

 遥は一人だった。お姉ちゃんとして、しっかりしないといけないという気持ちが、茜の喪失によって強くなりすぎたらしい。姉妹の前でも看護師の前でも、決して涙を見せなかった。

 唯一、遥のなかで茜と同様に「頼ってもいい人間」だとカテゴライズされていたのが、仁だったのだろう。ひよりが眠って仁と二人だけになった途端、遥は不安そうにそわそわし始め、仁が手を握ると落ち着く様子を見せた。そのまま仁の胸に顔を埋めて。時折音もなく泣いていた。その間、仁は遥の背中を撫で続けた。

 きっと、姉妹たちは「父親」を求めている。母親がいなくなって、頼れるものがなくなった子どもたちには、縋るものが必要だった。遥やひよりにとって、「父親」に一番近かった存在が、仁だっただけのこと。遥とひよりは仁に縋ることで心の空白を埋めようとして、双子は自分たちだけで世界を完結させることで、痛みを遠ざけようとした。

 仁は、ただ考えることをやめていた。慣れていたからだ。痛みを忘れるのも、心を殺すのも、昔に散々やってきた。

 そうして不毛な三日間が過ぎ去って。茜は、死んだ。


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