24

 そして今日、朝礼で茜の訃報が学校中に知らされた。

 けど、それだけだ。茜と特に親交のない大部分の人にとっては、明日から幕を開ける夏休みのほうが重要らしい。終業式は滞りなく行われ、校長先生の話の中で少し茜に触れる部分があったけれど、それだけだ。世界は何も変わることなく、今日も回り続けている。

(馬鹿だな。二回目だろ。慣れろよ。ほんと、しょうもねえ野郎だよな—――なあ、クソ野郎)

 ふと、気付いた。目の前にあるのは、見慣れた補習室の扉だった。あてもなく歩いていたと思ったら、身体は勝手にこんなところを目指していたらしい。

 みっともねえな、と自嘲しながら扉を開け、室内に足を踏み入れる。誰も居ない空き教室を横切って、慣れ親しんだ席に腰を下ろす。

 教卓の正面の席。かつて一人で補習を受けていたときから、そこが仁の指定席だった。

 席に座って顔を上げれば、簡単に黒板が見渡せる。黒板には、解きかけの問題の数式が書かれていた。四日前の補修は途中で終わってしまったから、後日続きをするために、残しておいてくれたのだろう。最後に教室に残っていたのがお堅い深月だったことを考えれば、意外な措置だった。

 もっとも、この空き教室は長いこと使われていなかった。だから、わざわざ掃除する必要もなかったのかもしれない。

 そうして、今も書きかけの数式は、それを解いてくれる人を待っている。別に仁なら解けないこともなかったけれど、そんな気分でもなかった。

 ここに座っていると、嫌でも思い出す。たいして高くもない身長で精いっぱい背伸びをして、教壇の上で熱心に授業を行う茜を、仁は一番近くで眺めていた。

 そんな日々も、今は遠い昔のことのように思える。

 そうして何をするでもなく。どれほどの間ただ漫然と過ごしたのか。不意に、教室のドアが音を立てて開いた。

「……やっぱり、ここにいたんですね」

 深月だった。とっさにドアのほうを振り向いた仁だったが、深月の姿を捉えた瞬間に、興味を失って顔を背けた。

「心配したんですよ。三日も学校を休んで」

「……わりぃ」

「……別に、謝ってほしいわけでは…」

 仁の席から一歩離れたところで立ち止まった深月は、何やら逡巡しているようだった。けれど、やがて意を決したように切り出した。

「夏期講習があるんです。あなたも、わたしといっしょに参加しませんか?」

 予期せぬ発言に、仁はようやく反応らしい反応を示した。気だるげに顔を持ち上げ、視線を動かして深月の顔を見つめる。

 自分に向けられる視線に、深月は一瞬怯む。そのどす黒い視線は、深月が初めて会ったころの仁にそっくりだったからだ。

 かつての冷たい言葉と暗い瞳を思い出し、挫けそうになる心を深月は必死に奮い立たせる。

「……高崎先生のことは、父――早川院長から聞いています」

 ぴくりっ、と仁が反応する。そんな僅かな機微にすら恐怖を覚えてしまう自分が、深月は心の底から嫌だった。

 何も変わっていない。あの時から、何も! 

 自分に対する怒りが、恐怖を塗りつぶし、深月は逃げ出しそうになる足で必死にその場に自分を縛り付けた。

「そのうえではっきり申し上げます。高崎先生のことを思うなら、あなたは前に進むべきです」

「……………」

「そうして俯いていても、先生が帰ってくるわけではありません。今あなたがすべきことは、先生の教えを無駄にしないために再び勉学に励むことです。夢があるんでしょう? 真っ当な人生を送るんでしょう? それを嘘にしたくないなら、やるべきことは一つのはずです」

 仁は何も答えない。

「……先生が、何のためにあなたの補修を受け持っていたか、本当にわからないんですか?」

 震える声で、泣きそうな顔で、深月は語り掛ける。

「先生はただ、あなたに――」

「――やめてくれ、委員長」

 初めて、仁が口を開いた。

「頼むから、やめてくれ……」

 今にも泣きそうな深月と同じ。震える声で、仁は言葉を吐き出した。

 前髪に隠れて、その表情は伺えない。けれど、潰れんばかりに歯を噛み締めるその仕草だけで、今の深月は十分にわかった。

「俺に……それを聞く資格はない――っ!」

 深月は、何も言えなかった。

 ガタっと音を立てて立ち上がった仁は、乱暴に鞄を掴んで歩き始める。

「怒鳴ってわりぃ、委員長――気ぃ使ってくれて、嬉しかったよ」

 呆然と立ち尽くす深月の横を、仁が擦れ違っていく。そしてそのまま、ドアが開く音がした。

「――っ! 一之瀬君っ⁉」

 我に返った深月が振り向くのと、仁が出ていこうとするのは同時だった。

 入口のところで立ち止まった仁は、深月に背を向けたままで語り始める。

「委員長。あんたはさ、優しい人だよ。やり方は不器用でも、委員長の真っすぐな優しさを分かってくれる人が必ずいる」

「……一之瀬、君?」

「あと、こういうのはあんまり委員長嬉しくないかもだけどさ。委員長は、かわいいよ。もうちょっとだけでいいから愛想良くして、少しだけ素直になるだけで、きっとみんなほっとかない。良い男なんて探せばいくらでも見つかる」

「一之瀬君? 何を言って……」

「余計なお世話かもしれない。でも、委員長には幸せになってほしいんだ。俺みたいなのに拘ってないでさ。委員長は、もっと委員長を幸せにしてくれる人を見つけてほしい」

「――っ! 気付いて……っ⁉」

 深月はずっと、気持ちに気付いてくれない仁にやきもきしていた。けれど、違ったのだ。気付いていなかったのは、深月のほう。本当はもう、とっくに――

「優しくて、できれば金持ちで。贅沢言うなら頭も良くて。誰かを傷つけたりしない、委員長を世界で一番大事にしてくれる、そんな良い人が絶対に見つかる」

 だからさ、と。そう言って、仁は一度だけ振り返った。疲れ切ったような顔で、目の下に隈を作って。

 自分がどれだけ辛くても、自分を慕ってくれた女の子に、心から幸あれと。恋が悲しいだけで終わらないように、せめて最後に笑ってみせる。

「じゃなな。最初に会ったとき、叱ってくれたの嬉しかったよ。こんな俺に気を使ってくれて、ありがとうな――深月」

 さよなら、と。そう言って、仁は再び深月に背を向けた。

「――っ! 一之瀬くんっ⁉」

 扉が、閉まった。もう仁の背中を追うことすらできない。思わず伸ばした手は、仁に届くことはなく。精一杯の言葉は、ただ仁を傷つけただけだった。

「どうして……どうして、私はっ⁉」

――どうして、高崎先生みたいにできないの?

 どうしようもない自己嫌悪と無力感に心を掻きむしりながら、深月はその場に膝をつき、人知れず泣き続けた。

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