8
「だぁ~~~、疲れたぁ」
「ふふっ、ご苦労様」
疲れ切った仁が、茜が腰かけるベンチの横に腰を下ろす。
肩車のまま全力ダッシュを要求された後は、鬼ごっこにまで付き合わされた。捕まえるのは難しくないが、すぐに捕まえても楽しくないだろう。程よく手を抜きながら、小さな身体で全力疾走するひよりと駆けまわるのは、仁をして中々の重労働だった。
今はひよりが砂場でお城づくりに精を出しているから、ようやく仁はお役御免になったというわけだった。
「子どもってなんであんなに元気なんだろ……」
「もうっ、仁君だって青春真っただ中の高校生でしょ?」
「おじさんもうそんな元気じゃないんすわ……」
「なにそれ。ふふっ」
柔らかな微笑みを浮かべた茜は、砂場で遊びひよりを見つめていた。
特になにかあるわけでもない。水道の水を手に溜めて運び、砂を固める。何度も何度も水道と砂場を往復しながら、ひよりはいたって真剣な顔で、砂のお城を作ろうとしていた。
大人からしてみれば、あまりに迂遠な作業だ。水を運ぶならバケツを使えばいいし、そもそも砂のお城を作ったところで何にもならない。そんな面倒で何の得にもならないことに一生懸命になれるのは、きっと子どもだからこそ。
少しずつ。ゆっくりでも、確実に。ひよりのお城は大きくなっていく。
遅々としたその歩みを見つめる茜の目は、どこまでも優しかった。
「ありがとうね、仁君」
「ん? 何すか急に?」
「私じゃ、あの子とあんな風に遊んであげられないから……あの子はきっと、お父さんと遊ぶのに憧れてたんだと思う」
ぼつりと漏れた呟きに、仁ははっと目を開く。
高崎家には父親がいない。四人目の子であるひよりが生まれた後、すぐに蒸発したらしい。
以来、行方は知れず。茜は女手一人で四人の娘を育ててきた。
「私なりに頑張ってきたつもりだけど、どうしてもお父さんだけはひよりにあげられなかった。だから、仁君があの子と遊んでくれるようになって嬉しかったの。ひよりがあんな風にはしゃぐなんて、初めてだったから」
家事と育児と仕事に追われて、子どもたちと遊ぶ暇なんてなかなか無かった。それでも、娘たちは文句一つ言ったことはなかったけれど。やはり、心の中に一抹の不安はあった。
寂しい思いをさせてないだろうか。本当はもっとしたいことがあって、遠慮しているんじゃないだろうか。本当はもっと別の、幸せになれる未来があったんじゃ…………
そんな悩みを、とある少年は簡単に吹き飛ばした。
『補修でお世話になってるぶん、お礼をさせてください。大丈夫、女の子の相手とか慣れてるんで。一回り年下でも余裕ですよ』
冗談めかした口調で、けれど真剣に、仁はひよりのお世話を買って出た。
最初は不安もあった茜だったが、その不安はすぐに解消された。
『あのね、お母さん! きょうはお兄ちゃんが肩ぐるましてくれたの! すっごく高くてね、さいとうさん家のへいの上の柿にも手とどいたの。さいとうさんおこってたけど、お兄ちゃんすっごく足もはやくて……』
夕飯の席で、今日は何をした、何を教えてもらったと語るひよりは、見たこともないほどに楽しそうだった。
一部余計なことも教えているようだったが(あとでめちゃくちゃ説教して謝りに行った)、それでも、ひよりにとっては全てが新鮮で楽しい思い出だったらしい。
ひよりの口から仁の名前が出る度に、茜は心が軽くなっていくのを感じていた。
「だからね。ほんとうに、仁君には迷惑ばかりかけちゃって申し訳ないって思うけど。でも、これからも、時々でいいから、ひよりと遊んであげてくれないかな?」
緊張で微かに震える手で、隣に座る仁の手を握りしめる。
二人の掌は重なり、二人の視線が交錯する。
真剣な顔で唇を引き結び、必死に懇願する茜に――仁は、はぁっとため息を吐いた。
「それ、今日二回目っすよ?」
「え?」
「――大切な人のためにすることを、苦労だなんて思わない――最初に言ったの、先生ですよ」
呆ける茜の瞳を、真っ向から見つめ返して、仁は真剣な顔で語る。
「ひよりと遊ぶのは、楽しいんですよ。俺にとっても、ひよりにとっても。苦労なんて誰にもかけてない。身体が多少疲れても、胸のとこが……なんかあったかいんすよ。この気持ちだけで、俺は十分すぎるほどに報われてる。あんたが気にすることなんて、ひっとつもない」
手の甲に重ねられた茜の掌を、今度は仁の手が握り返す。
「だからさ先生。これからも、俺にひよりと遊ばせてもらえないっすか? できれば、ずっと」
いつも通りの軽薄な調子で、仁は笑ってそう言った。
茜の小さな手を、仁の掌が包み込む。そして、茜の手の震えが止まる。
「……うん。もちろんだよ」
地平線の向こうに沈みゆく太陽が、空を夕焼け色に染め上げる。
茜色。自身の名前と同じ色の光の中で、茜は仁と見つめ合う。
ひよりを見守っていた時の、慈愛に満ちた母親としての顔とは違う。言葉にできないほどの感謝と、幸せを噛み締める確かな愛おしさを込めて――茜は、仁へと微笑みかけた。
「ありがとうね。仁君」
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