「だぁ~~~、疲れたぁ」

「ふふっ、ご苦労様」

 疲れ切った仁が、茜が腰かけるベンチの横に腰を下ろす。

 肩車のまま全力ダッシュを要求された後は、鬼ごっこにまで付き合わされた。捕まえるのは難しくないが、すぐに捕まえても楽しくないだろう。程よく手を抜きながら、小さな身体で全力疾走するひよりと駆けまわるのは、仁をして中々の重労働だった。

 今はひよりが砂場でお城づくりに精を出しているから、ようやく仁はお役御免になったというわけだった。

「子どもってなんであんなに元気なんだろ……」

「もうっ、仁君だって青春真っただ中の高校生でしょ?」

「おじさんもうそんな元気じゃないんすわ……」

「なにそれ。ふふっ」

 柔らかな微笑みを浮かべた茜は、砂場で遊びひよりを見つめていた。

 特になにかあるわけでもない。水道の水を手に溜めて運び、砂を固める。何度も何度も水道と砂場を往復しながら、ひよりはいたって真剣な顔で、砂のお城を作ろうとしていた。

 大人からしてみれば、あまりに迂遠な作業だ。水を運ぶならバケツを使えばいいし、そもそも砂のお城を作ったところで何にもならない。そんな面倒で何の得にもならないことに一生懸命になれるのは、きっと子どもだからこそ。

 少しずつ。ゆっくりでも、確実に。ひよりのお城は大きくなっていく。

 遅々としたその歩みを見つめる茜の目は、どこまでも優しかった。

「ありがとうね、仁君」

「ん? 何すか急に?」

「私じゃ、あの子とあんな風に遊んであげられないから……あの子はきっと、お父さんと遊ぶのに憧れてたんだと思う」

 ぼつりと漏れた呟きに、仁ははっと目を開く。

 高崎家には父親がいない。四人目の子であるひよりが生まれた後、すぐに蒸発したらしい。

 以来、行方は知れず。茜は女手一人で四人の娘を育ててきた。

「私なりに頑張ってきたつもりだけど、どうしてもお父さんだけはひよりにあげられなかった。だから、仁君があの子と遊んでくれるようになって嬉しかったの。ひよりがあんな風にはしゃぐなんて、初めてだったから」

 家事と育児と仕事に追われて、子どもたちと遊ぶ暇なんてなかなか無かった。それでも、娘たちは文句一つ言ったことはなかったけれど。やはり、心の中に一抹の不安はあった。

 寂しい思いをさせてないだろうか。本当はもっとしたいことがあって、遠慮しているんじゃないだろうか。本当はもっと別の、幸せになれる未来があったんじゃ…………

 そんな悩みを、とある少年は簡単に吹き飛ばした。

『補修でお世話になってるぶん、お礼をさせてください。大丈夫、女の子の相手とか慣れてるんで。一回り年下でも余裕ですよ』

 冗談めかした口調で、けれど真剣に、仁はひよりのお世話を買って出た。

 最初は不安もあった茜だったが、その不安はすぐに解消された。

『あのね、お母さん! きょうはお兄ちゃんが肩ぐるましてくれたの! すっごく高くてね、さいとうさん家のへいの上の柿にも手とどいたの。さいとうさんおこってたけど、お兄ちゃんすっごく足もはやくて……』

 夕飯の席で、今日は何をした、何を教えてもらったと語るひよりは、見たこともないほどに楽しそうだった。

 一部余計なことも教えているようだったが(あとでめちゃくちゃ説教して謝りに行った)、それでも、ひよりにとっては全てが新鮮で楽しい思い出だったらしい。

 ひよりの口から仁の名前が出る度に、茜は心が軽くなっていくのを感じていた。

「だからね。ほんとうに、仁君には迷惑ばかりかけちゃって申し訳ないって思うけど。でも、これからも、時々でいいから、ひよりと遊んであげてくれないかな?」

 緊張で微かに震える手で、隣に座る仁の手を握りしめる。

 二人の掌は重なり、二人の視線が交錯する。

 真剣な顔で唇を引き結び、必死に懇願する茜に――仁は、はぁっとため息を吐いた。

「それ、今日二回目っすよ?」

「え?」

「――大切な人のためにすることを、苦労だなんて思わない――最初に言ったの、先生ですよ」

 呆ける茜の瞳を、真っ向から見つめ返して、仁は真剣な顔で語る。

「ひよりと遊ぶのは、楽しいんですよ。俺にとっても、ひよりにとっても。苦労なんて誰にもかけてない。身体が多少疲れても、胸のとこが……なんかあったかいんすよ。この気持ちだけで、俺は十分すぎるほどに報われてる。あんたが気にすることなんて、ひっとつもない」 

 手の甲に重ねられた茜の掌を、今度は仁の手が握り返す。

「だからさ先生。これからも、俺にひよりと遊ばせてもらえないっすか? できれば、ずっと」

 いつも通りの軽薄な調子で、仁は笑ってそう言った。

 茜の小さな手を、仁の掌が包み込む。そして、茜の手の震えが止まる。

「……うん。もちろんだよ」

 地平線の向こうに沈みゆく太陽が、空を夕焼け色に染め上げる。

 茜色。自身の名前と同じ色の光の中で、茜は仁と見つめ合う。

 ひよりを見守っていた時の、慈愛に満ちた母親としての顔とは違う。言葉にできないほどの感謝と、幸せを噛み締める確かな愛おしさを込めて――茜は、仁へと微笑みかけた。

「ありがとうね。仁君」

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