34

 外は、雨が降っていた。ゲリラ豪雨というのだろうか。夕方の急激な豪雨のなか、仁は傘もささずに歩いていた。

 別に目的地もない。ただ、少しでもあの場所から離れたかった。あのまま茜といっしょにいたら、自分はおかしくなる。きっと、もう二度と……

「おっ、仁じゃん。何やってんだよ、そんなとこで?」

 ふと、名前を呼ぶ声がして、そちらを振り向いた。

「おいおい、なに? こんな雨のなか。彼女にでも振られたわけ?」

「んなわけねーだろ。今さらこいつが一人や二人振られたからって、ショック受けるガラかよ?」

「つーかおまえほんっとイケメンよな? うらやましいわー」

「なあ、また今度彼女回してくれよ。おまえが飽きた後でいいからさ」

「でたよ、おまえ必死すぎだろ。仁と会う度そればっかじゃん」

「うっせえな。イケメンにはこの苦労はわかんねえよ。なあ、頼みますよせんぱーい?」

 馴れ馴れしく肩を組んでくるのは、仁の仲間の一人の少年だった。平日の昼間から、薄暗い路地裏でたむろする彼らは、仁の同類だ。幼いころに道を踏み外した者。大人のいう正しさが気に食わなかった者。将来に希望を見いだせず、刹那的な快楽に身をゆだねる者。

 貧しさか、環境か、生来の気性か。原因は何にせよ、彼らは総じて、真っ当に生きられなかった人生の敗北者たちだ。

 不思議と、似た人間は惹かれ合うようで。仁もまた自然と、そうした人間とつるむようになっていた。

「そうだビリヤードいこうぜ? 俺今度先輩と行くんだけど、やっぱどうしても……」

「――彼女、だったか? 欲しいならやるよ、いくらでも」

 いつになく低い声で、仁はそう答えた。

 さすがに周りも、今の仁がまともじゃないことに気付いたのだろう。酒を飲んでいた手を止めて、怪訝そうに仁の様子を伺っていた。

「その代わりさ、俺も欲しいものがあんだわ――クスリ、こっちに回してくれよ」

 クスリ。その言葉が意味するのは、この場においては一つしかない。

 仁が「クスリ」に手を出したという話はなかった。何かの「パーティー」で使ったという話はあっても、自分から求めたことは今までなかったはず。

「なあ……おまえさ、この前『先輩』から捌くように言われてたよな。あれ、俺が買い取ってやるよ。金ならほら……この時計売れば、足りるだろ?」

 そう言って、仁は高級ブランドの腕時計を投げ渡す。足がつかないように売り払えば、まとまった金になるだろう。他ならぬ仁が、今までそうして生きてきたのだから。

 貴重な自分の取り分もためらいもなく渡そうとする仁に、周りもいよいよもっておかしいことに気付く。

「なあ、仁……おまえ、ほんとにどうし――」


「こらぁ、おまえら! こんなところで何してるっ!」


 怒鳴り声が響き、その場の全員が一斉にそちらを振り向いた。警官が、二名。巡回中だったのだろう。明らかに真っ当でない集団を見咎め、肩を怒らせながら警棒を片手に歩いてくる。

 グループのなかでも纏め役にあたる一人が、忌々し気に舌打ちする。判断は早かった。

「うっぜぇな。おいおまえら! とっととズらかるぞ!」

 その一声で、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。警官は二名、片方はすでに手元の無線機で応援を要請していた。じきにここにはもっと多くの警官が到着する。

 大なり小なり後ろ暗いところがある面子だ。長居する理由はなかった。

「――って、おい! なにしてんだ、逃げるぞ仁っ⁉」

 そう、普通なら。しかし生憎、今の仁には『理由』があった。

(くだらねえこと、思い出させやがって……っ!)

 九歳の、幼い正義感は現実を前に粉々に砕かれた。今ではそういうものだと理解しているが、それでも――あの日の失望と怒りは、胸の奥で燻り続けていた。

 ただでさえ、昔のことを思い出して近年最低のモチベーションだったのだ。そこに我が物顔で権力を振りかざす警官が、まがりなりにも仁にとって友人と呼ぶべき連中を襲おうとしている。端的に言って、すさまじく腹立たしかった。

(こいつらは取り締まって、もっとやべえ奴らには手を出さないってか……)

 この年になればわかる。警察にもスコアとか実績と呼ばれる類のものがあって。自分の地位を確保するためには、仕事をしてるアピールをする必要がある。

 アピールできればいいのだ。何も危険なヤクザ者に手を出す必要なんてない。イキったクソガキを成敗して、適当に拘置所にぶち込めばそれでいい。

 そうやって、あいつらは給料を貰っている。俺たちの「不幸」の上で、あいつは「幸せ」になっている。クソ食らえだ。

「おい、止まれ。なんだクソガキ、やるってのか、おいっ⁉」

 仁が一歩、前に踏み出せば、警官の一人は動揺した様子を見せた。どうせ逃げると思っていたのだろう。わざとらしく見せびらかした警棒がその証拠だ。権力と暴力をちらつかせて、自分よりも弱い者相手に威張り散らす。 

(俺らと何が違うんだよ? それが正義かよ、なあ、おい?)

 仁が一気に駆け出した。

 急速に接近してくる少年に、いよいよ平静を装うこともできなくなったのだろう。動揺を露わに、警官は警棒を振り上げた。

「くっ、来るなあっ⁉」

 そして、がら空きになった胴体に、仁の拳が叩き込まれた。胃液をまき散らし、くの字に折れ曲がる警官の身体。

そのまま頭を両手で掴み、顔面に膝蹴りを撃ち込む。一発。鼻が折れた音がした。二発。血に交じって、歯らしきものが飛んでいった。三発。頬が砕ける感触があった。四発。うめき声も上がらなくなった。

 頭を離すと、警官はそのまま蹲った。だんごむしのように丸まったその腹を、思いっきり蹴り飛ばす。肋骨をへし折る感触がつま先に伝わり、ひっくり返った警官は、壁に激突して動かなくなった。

「ひっ、ひいいいっ⁉」

 悲鳴が聞こえ、そちらを振り向けば、残るもう一人の警官が泡を食って逃げ出すところだった。中年の、小太りの警官だ。同僚が見るも無残なことになって、さぞ怖いことだろう。逃げ出すその左手には、結婚指輪が輝いて見えた。

「良いもん食ってんだろうな。家族も、元気かな?」

 いいな、と。そう呟いて。仁は駆け出した。

 途中、警官が落とした警棒を拾う。思った通り、走力はたいしたことはない。人通りの多いところに出る前に、すぐさま追いついた仁は、躊躇いもなく警官の頭に警棒を振り下した。

「あああああっ⁉」

 汚い悲鳴を上げ、警官がよろめく。頭は割れ、血が顔の半分を覆っていた。

 だから、どうしたということもない。警官の後頭部の髪を鷲掴んだ仁は、走る勢いのままに、警官を顔面から露店のシャッターに叩きつけた。何かがつぶれるような汚い音と、シャッターが揺れるけたたましい音。

「うるさい」

 もう一度、顔面からシャッターに叩きつける。もう一度、さらにもう一度。

「うるさいっ」

 膝の力が抜けた警官が崩れ落ち、仁は冷たい目で、その足を踏みつけた。

 本来の関節とは真逆の方向に力が加わったことで、警官の全身に激痛が走る。けれどもう悲鳴を上げる力も残っていないようで、仁は黙って、すすり泣く警官のもう一方の足首も、同じようにして壊した。

 そして、うつ伏せの状態の警官の腕を掴み、少しずつねじり上げていく。

「……やめて、くれ」

「うるせえよ」

 か細い声で呟かれた懇願を、仁は切り捨てる。そして、そのまま強引に肩の関節を外した。 声の出ない絶叫を漏らす警官を、今度は蹴る。蹴る。蹴る。

「うるせえんだよ、どいつもこいつも」

 何度も何度も、頭の中でこだまする。

『頼む。おまえの人生まで棒に振るな』

 父は、そう言って自分に頭を下げた。

『ごめんね。仁だけでも、助かってね』

 母は、そう言って死んだ。


『どうか、自分を嫌わないで』

 茜は、そう言って笑った。


「誰も――俺に構うなよっ!」

 最後に、全力で蹴り飛ばした。ボールのように弾んだ警官は、倒れ込んだまま動かない。

 肩で息をする仁の目には、もう警官の姿も映っていなかった。

「誰も、頼んでねえだろ……」

 誰かを不幸にすることでしか、幸せが手に入らないのなら。そんなものは、欲しくもない。

「頼むから、もうこれ以上……誰も、俺に………」

 死にたかったわけじゃない。それでも、生きている意味はわからなかった。幸せなんていらない。その代わり、誰にも不幸になんてなってほしくなかった。それなのに、気付けば自分は今日も、誰かの幸せを奪っている。

 もう嫌だった。こんな毎日も。こんな自分も。

「……母さん…………先生……」

 遠く、パトカーの音が聞こえてきた。それも、かなり数が多い。少なくとも、乗っているのは一人や二人じゃないだろう。

 ふと、瞼の裏に、茜の顔が浮かんだ。どうだろうか。あの能天気でお節介焼きのお人よしは、自分が死んだら泣いてくれるのだろうか。

 だとしたら、少し嬉しい。けど、それ以上に。なんだか悲しかった。


『仁君、いっしょにがんばろうねっ!』


 あの先生が笑っているのを見るのは、結構好きだったのに。

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