33
いつものように、薄暗い路地裏で、仁は『仕事』に勤しんでいた。
「そらっ、そらあっ! 舐めた口ききやがってよお、そんなもんかよ、ああっ⁉」
仲間たちが金ヅルを袋叩きにするのを、いつものように静観する。
ひとしきり暴力で心を折った後に、仁が甘言と共に要求を突きつけ、誘導する。いつもの手口だった。
全身にくまなく暴力を浴びて、ぐったりと動かなくなった年若の男性を見て、仲間内では副リーダーを務める、ピアスの少年が満足そうに笑う。
「おい仁、どうするよこいつ?」
「………………」
「……仁?」
「………………ああ、そうだな」
そしていつも通り、仁は説得を始める。家族を盾に、愛情を利用し、地獄への誘導するために、甘言と恫喝を織り交ぜる。これまで何度も何度も繰り返してきた。
「――ふざ、けるな! 家族を、おまえたちなんかの好きにさせるか! あの子は、おれが――ぐえっ⁉」
「悪ぃ、仁。ちょっと足りなかったわ」
だというのに、どういうわけか、男性の言葉が脳裏を離れない。家族。家族。家族。仁にとっては、呪いにも等しい言葉。けど、多くの人にとっては、その真逆。
夕暮れの下、『幸せ』そうに笑っていた高崎家の光景が脳裏をよぎる。
「おい、これ以上はまじで潰すぞ……ああ、よしよし。それでいいんだよ。終わったぜ、仁」
「……ああ」
いつものように、契約書にサインを押させて。
「今日は解散だ」
「よっしゃあ、飯行こうぜ!」
仲間たちがいなくなった後に、仁は哀れな被害者といっしょに残る。だからといって、何かするわけでもない。恨み言の一つも言われることは多々あるが、無視していた。
けれど、その日はどうも、血迷っていたらしい。
「……あんたは、これから地獄に堕ちる」
力なく項垂れ、地面膝をついた被害者に向けて、ぽつぽつと語り始める。
「向こう数年は、生きていられる。でも絞りとるだけ絞りとられて、後には何も残らない。最後は自殺か、ヤク漬けで廃人か。どうあっても、もうあんたが助かる未来はない」
被害者は、何も答えない。
「でも、これにあんたがサインしたおかげで……少なくとも、あんたの家族は助かる。それだけは、間違いな――」
「――うるせえよ。くたばれクソ野郎」
それは、あまりにも明確な、憎悪の言葉だった。この悪党に死んでほしい。生きていることが許せない。
人間の感情のなかで、もっとも強烈なもの。怒りと憎悪。他でもない、仁の心を満たすモノ。
「……ああ。そうだよな」
何を馬鹿なことを、と。仁は自嘲をもらす。懺悔でもしたかったのか。馬鹿馬鹿しいと嗤って、歩き出す。
胸が痛い。いつまでも、いつまでも。この痛みを終わらせるためにこそ、自分は生きて、死ぬと決めた。許しはいらない。この痛みは、自分だけのものでいい。
『——ねえ、仁君?』
だというのに。何度も何度も、同じ笑顔が目の前をよぎる。巻き込みたくない。消えてしまえと思うのに、離れたくない自分がいる。
「……どうしようもないな、俺も……」
◆
そして翌日、仁はまたしても補習室に来ていた。
二人で保育園へ行った日から、ますます馴れ馴れしくなった茜は、ことあるごとに仁に絡み続け、耐えかねた仁はつい面倒くさくなって出席してしまう。それに気をよくした茜は、ますますウザ絡みするようになり、また仁は……という悪循環。
気付けば一学期も終わり、期末試験すら終わっていた。その間、仁が何回補習に出席したのかは覚えていない。考えると自分が情けなくなるから、考えないようにしていた。
そして、期末試験が終わってからの茜は、いたくご機嫌だった。
「……ずいぶん楽しそうっすね」
「だってすごいよ仁君っ! 全科目、ひとつも赤点なかったんだよ! 数学なんて平均点より二点も上だったし!」
「そりゃこんだけ何度も補習受けてりゃ成績だって伸びますよ」
はなはだ不本意だったが、茜の熱心な指導により仁の成績は急激に向上していた。それこそ、一度は危ぶまれた進級も、このままいけば問題ないのでは、と思われるほどに。
高校なんぞとっととやめるつもりだった仁としては、面倒以外の何者でもなかったけれど。それでも、茜にとっては嬉しいことだったらしい。
「でもほんと。実際すごいんだよ、仁君。簡単な解説だけで、すぐに要点掴んじゃうし、一度やったことは忘れないし。この補習以外ろくに授業出てないのに、ちゃんと試験解けるなんて、たぶんほんとに要領がいいんだよ。ちゃんと真面目に勉強したら、ぜったいもっと成績も伸びるし、けっこういい大学にもいけるかもよ?」
「興味ねえよ」
そう言って、一刀両断に切り捨てる。
しかし、仁は自分の将来には微塵も興味がないとはいえ。さすがにここに至って別のことに興味がわいてきた。
「……なんで、そこまですんだよ?」
茜だ。何が楽しくて仁に付き纏うのか、仁には本気で理解できなかった。いい加減、高崎茜が度を越えたお人よしだというのはわかりきってる。でもそれにしたって度が過ぎているだろう。
何度も仁に付き纏い、仁の成績向上を我が事のように喜んでいる。それで何を得するわけでもないのに。
仁には、茜の気持ちが本気で理解できなかった。
「私は先生だよ? 生徒が悪い道に行こうとするなら、正しい道に引っ張り戻すのが仕事なの」
不思議そうに目を瞬かせた茜は、やがて当たり前のようにそう答えた。
「そうかよ。そりゃ災難だったな。仕事で、こんなクソ野郎の世話を押し付けられるなんて」
そんな態度が、仁は不快だった。理解できない。そんな仕事ならとっととやめてしまえばいい。どうせ、若輩だからと面倒な仕事を先輩から押し付けられたんだろ。なら、さっさと仕事してるポーズだけして、見捨てればいい。それが合理的な判断だ。それこそが、高崎茜が幸せになるための最善手だ。
それなのに、なぜだ? なぜ、そんな悲しそうな顔をする?
「……そういう言い方は、よくないよ? 仁君もすごい人なんだよ。そんなふうに自分を卑下しちゃだめ」
「どこがだよ? あんた、俺が今までどういうふうに生きて来たか知らねえのか? 何人病院送りにして、何回警察のお世話になったか知らねえのか?」
「それはもちろんいけないこと。でもね、どんな人でも、生まれきたことには意味があるの」
そういって、茜はそっと自分のお腹を押さえた。窓越し日の光を浴びて、優しく微笑むその姿は、あの日に仁が見た母親としての茜の顔で。記憶の中の母と、重なった。
「知ってる? 赤ちゃん生むのってね、すっごく痛いの。でも生まれてきてくれたその瞬間に、すっごく嬉しくて、幸せな気持ちになる。痛みなんて、どっかいっちゃうくらい」
ひどく耳鳴りがした。耳が腐るような綺麗事も、それを心地よいと思ってしまう自分も、すべてが気持ち悪くて。どうしようもなく吐き気が込み上げて、目のまえが暗くなる。
「だから、私は言いたいんだ。世界中のみんなに。生まれてきてくれてありがとうって。あなたが生まれてくれたおかげで、幸せになった人がいるんだからって」
そう微笑んで、茜は優しい目で仁を見つめた。
奇異の視線、拒絶の視線にはもう飽きた。今さらもう何も感じない。愛欲の視線は便利だ。思う存分利用できる。
けど、今こうして自分を見つめる茜の目は、どんな人から向けられる視線とも違っていた。重なる。幼い日の、母の面影に。幸せだった頃の思い出。心細かったとき、母さんは決まって傍にいてくれた。ずっと、傍に――
心が、ひび割れた。
「違う。俺は、そんな上等な人間じゃ………」
辛い気持ちに蓋をして、上から何十にも塗り固めて、鍵をかけて。もう揺れることはないと思っていたのに。優しい陽だまりのような手は、あまりに容易く心を包んで温めて。
いつからだろう? いつから自分は、この人の隣を、心地よいと思い始めたのだろう?
数えきれないほどの女たちと、どれほど身体を重ねても、どれほど唇を交わしても。心には響かなかった。それなのに、どうして……?
「……私の娘にもね、仁君みたいな子がいるの。いっつも我慢して、遠慮がちで、自分なんかって俯いちゃう子。優しすぎるから、人よりずっと傷つきやすい。それはその子の良いところだってわかってるけど、でもお母さんとしては、少し寂しいんだ」
少し寂しそうな茜の顔が、言い逃れできないほどに母の面影と重なる。
『ごめんね、仁』
違うんだ。そんな顔をしてほしかったんじゃなくて。俺はただ、母さんに……
「だからね。これは、私のわがままなんだけど。どうか、自分を嫌わないで。大好きな子が自分で自分を傷つけるのは、お母さんもすごく寂しい。――きっと、仁君のお母さんも、悲しくなっちゃうよ?」
限界、だった。その言葉は、脆くなっていた仁の心に、あまりにたやすく穴を開けた。溢れ出した想いは、もう止まらない。
「…………知ったふうな口きくなよ」
「え?」
「あんたに何がわかるんだよっ⁉ 俺たちのことも、母さんのことも何も知らねえくせに! 母さんが、どんな思いで――っ」
激昂し、立ち上がる。
初めて見る、本気で怒った仁。茜は今まで、決して本心から仁に拒絶されたことはなかった。何だかんだと文句を言いながらも、仁は、茜を傷つけないように配慮していたのだ。その笑顔が、曇ることのないように。
そんな仁が、今、震えるほどに怒っていた。
「ごめん、仁君っ⁉ 私、なにか無神経なこと――」
伸ばした手は空を切り。そのまま仁は、足早に補習室から出ていった。
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