32

「ありがとうございましたー」

 右手をひよりと繋ぎ、左手に飲み物と湿布と絆創膏が入ったコンビニ袋を下げながら、仁はコンビニを後にした。

「ふんふんふふーん」

 さすがに店内でも肩車するわけにはいかず、地面に下ろされたというのに、ひよりはご機嫌だった。仁の手を掴んで、勢いよく前後に揺らしながら、足取りも軽く歩いていく。

「ずいぶんご機嫌だな、お姫様。そんなに楽しかったか?」

「うん、すっごく楽しいよ!」

 ひよりと歩調を合わせながら、仁は変わらぬ仏頂面だった。

「おにいちゃんの手、おかあさんとはぜんぜんちがうの。でもね、あったかいのはいっしょ!」

 ひよりが、仁の手にぶらさがるようにして思いっきり体重をかける。

「おいこら、なにしてんだ」

「すごいすごい! ブランコみたい! こんなのはじめて!」

 ひよりの足が地面から離れて、全体重がかかるが、仁はとくに苦も無く片腕でぶら下げて歩いていた。子ども一人の体重なんて軽いものだ。それよりも、仁には気にかかる一言があった。

「はじめて、か……」

 肩車といい、このくらいの悪ふざけは、やんちゃ盛りの子どもは大体やるものだ。母親ではなく、もっと大きくて、丈夫で、力が強い――父親相手に。

「なあ、ひより。おまえさ……お父さんはどうした?」

「? おとうさんって?」

「……いや、なんでもない。ほーら、ブランコだぞー」

「きゃああはははっ!」

 ひよりを腕にぶら下げたまま、軽く前後に揺すってみせる。それだけで、ひよりは弾けるように笑っていた。

 初めて、なのだろう。きっと何もかもが。知らなかった楽しいことを、全身で味わうような幼子の姿に、仁もふっと頬を緩めて、


「――あの! あなた、何をしているんですか⁉」


 張り詰めたような大声が、人通りのない路地に響いた。

 ひよりがびっくりして着地し、仁も据わった目で声のしたほうを振り返る。

 声に混じった確かな敵意。覚えがありすぎるその感情に、仁も一瞬のうちに臨戦態勢に入り、

「……ん? おまえ……」

 声の主の顔を見た瞬間、肩に入った力が抜ける。

「だっ、誰ですかあなた⁉ ひっ、ひよりをどうするつもりですか⁉」

 恐怖に震える声で、必死に呼びかけているのは、一人の少女だった。黒いセーラー服に身を包んだ、中学生と思しき少女。よほど怖いのか、顔を真っ青にしながらも、勇気を振り絞って必死に仁を睨みつけている。

 十中八九、仁を誘拐犯か何かと勘違いしている。それだけなら、ただ面倒なことになったと思うだけなのだが。どうにも困ったことに、仁はその顔立ちに嫌というほど見覚えがあった。

 明るい栗色の髪に、丸顔気味の童顔。ただし目元だけは少し異なり、たれ目がちの茜とは対照的なツリ目。

 長い髪をポニーテールにした少女は、高崎茜と瓜二つだった。

「なあ、もしかしておまえさ……」

「ゆっ、誘拐ですか⁉ 身代金目当てですか⁉ うちにはお金なんてありませんよ⁉ だっ、だから、早くその子を離して――」

「おねえちゃん、なにさわいでるの?」

「ひっ、ひより⁉ 何してるんですか⁉ 知らない人についていったらだめって、お姉ちゃん言いましたよ⁉ はっ、はやくこっちに――」

「あー、待て待て勘違いだ」

「なっ、なにが勘違いですか! こんな小さな子をたぶらかして、この悪と――」

「俺、おまえの母親の生徒」

「…………………へっ?」

 仁が懐から取り出した生徒手帳を凝視して、高崎遥は完全に固まった。


   ◆


「――ほんっっっっとうに、もうしわけありませんでした!」

 公園までいっしょに戻り、母から事情を聞いた遥は、己の勘違いを悟った。

「母のために動いてくれて、その上ひよりといっしょに遊んでくれた人に、私はっ! 私はなんという失礼なことを――っ!」

「いや、いいって別に。ほら、おれこんな見た目だし。警戒して当たり前だって」

 土下座せんばかりの勢いで頭を下げる遥に、仁は軽く引いていた。

「そんなっ⁉ 人を見かけで判断するなんて最低です! 私は、私はなんて――」

「いや、マジで気にしてねえから。それやめろ、おい、まじで土下座はやめろさすがにっ⁉」

「止めないでください、私は! 私はっ!」

「あの、遥ちゃん。仁君困ってるから、そのへんで、ねっ?」

「…………ううぅぅ~~、ごめんなさいお母さーん」

 もはや涙なのか何なのかわからない液体でぐしゃぐしゃになった顔で、遥はもう一度頭を下げた。

「えっと、一之瀬仁さん、ですよね? ありがとうございました、妹と母がお世話になりました。高崎遥っていいます」

「……ああ。こっちこそ、あんたの母親には世話になってるよ。いろいろとな」

「――そうですねっ! 母は先生ですからねっ!」 

 いろいろ、の部分に含みを持たせた仁だったが、遥は何やら都合の良い解釈をしたらしい。さっきまでの曇り顔がどこへやら、ぱっと顔を明るくすると、一気に仁との距離を詰めてくる。

「私、嬉しいです! こんな放課後もいっしょにいるくらい、母のことを慕ってくれる生徒さんがいてくれて! これからも、母といっしょに頑張ってくださいね!」

「……………………ああ。善処する」

「あはは……あの、遥ちゃん? 私、仁君とお話あるから。ひよりの相手、お願いしていい?」

「はいっ! 任せてください!」

 苦笑いを浮かべた茜が、仕事を振って。遥はとびきりの笑顔でそれに応えた。

 ひよりの手を引いて二人は砂場へ向かっていき、おもむろにお城の建築が始まる。

「元気の良い娘さんっすね」

「……うん。ほんとに」

 なんと言うべきか。嵐のような少女だった。

 心なしか疲れた顔の仁に、茜も申し訳なさそうな顔をする。

「足、どうすか?」

「あっ、それはもう大丈夫。絆創膏貼ったし。仁君のおかげ、ありがと。あっ、お代は……」

「いいっすよそんなの、みみっちい。レシートもねえし、忘れたわ」

「あうぅ、でも、先生が生徒にそんなこと……」

「別に俺、あんたのこと先生って思ってないんで」

「ええっ⁉ ひどい! わたし、結構がんばってこの仕事やってるのに!」

「頑張りすぎなんだよ、あんたは。仕事だったらなおさら、手ぇ抜くこと覚えろ」

「だっ、だめだよそんなの! 生徒さんの人生を預かる身として、不誠実なことはできません」

「だから馬鹿だって言ってんだよ熱血馬鹿教師」

「ぅう……だめなんだよ、先生にむけてそんな言い方……」

「…………まあでも、馬鹿だからこそ、なのかもな」

「えっ?」

 どういう意味、と。茜が首を傾げる。

 ベンチに並んで座った仁は、そんな茜と目を合わせることなく。その両目は、砂場で遊ぶ姉妹たちをじっと眺めていた。

「なあ、今から嫌なこと訊くぞ」

「…………うん。なに?」

「あいつらの父親はどうした?」

 なんとなく予想できたその問いに、茜は苦笑いを浮かべながら答えた。

「えっとね……いなくなっちゃったんだ。ひよりが産まれてすぐに、突然」

「……それから連絡は?」

「ぜんぜん。どこにいるかもわかんないや」

 あはは、と乾いた笑いを漏らす茜。仁は、まったく笑わなかった。重苦しい沈黙が漂い、茜も笑顔を引っ込める。

「……ごめんね、仁君」

「なんで謝るんだよ」

「だって、先生がこんなんじゃ、嫌だよね? お父さんにも愛想尽かされちゃうくらいダメなお母さんなのに、先生として生徒にお説教しようなんてさ。説得力無いよね? 失敗したくせに、おまえからなに教わるんだって感じだよね? あはは……」

 虚勢を張って、表面を取り繕って、早口で自分を傷つける言葉を並べ立てる茜は、誰が見てもわかるほどに無理をしていて。今にも崩れそうな笑顔を、必死に作って、茜は言う。

「……ダメだよね、私。仁君の言う通りだ。お母さんとしても、先生としても、失格で――」

「――誰がンなこと言ったよ?」

「……え?」

 目を赤くしながら、声を震わせる茜を、横目に眺めて。仁は、ちっと舌打ちを漏らす。

「人の台詞勝手に誤解してんじゃねえよ、国語勉強しなおせ馬鹿教師」

「でも、私のこと、だめって……」

「……あのな。男に蒸発された女なんてな、ざらにいるんだよ。珍しくもねえ」

 溜息を洩らし、慎重に――この意外に繊細な先生を、不用意に傷つけないように――言葉を選びながら、仁は続ける。

「クソみてえな野郎に熱を上げて、うっかり子どもができたらトンズラされて。堕ろせばいいのに、「生まれてくる子は悪くないから」とか言って生むんだよ。んで結局金もないから、ろくに育てられなくて……最後は、母子揃ってクソみてえな末路を迎えるんだ。そんな話を、今までに嫌ってくらい見てきた」

 仁は、子どもが嫌いだ。苦手なんだ。どうしていいかわからない。

 自分の子どもを愛しているはずの母親が、けっきょくどうしようもなく不幸になっていく姿を見る度に、どうすればあの女は「幸せ」になれたのか考えて――けっきょく、答えが一つしか思い浮かばないから。どうしようもない虚しさに、毎度毎度心底嫌気が差すからだ。

「でも、あんたは違うだろ」

 だからこそ、最悪(そう)ならなかった今を見ていると、世の中捨てたもんじゃないと思えるのだ。

「旦那がいなかろうが、あんたはあいつらをちゃんと育ててる。道の端っこで拾った小鳥のために、やったこともねえ木登りをその場で始めようとしたり。自分の妹を守るために、大の男にたった一人で立ち向かったり。優しい奴らだよ、びっくりするくらいな」

 仁が見てきた世界に、優しさ(そんなもの)はなかった。この世には、敵か味方か。一部のツレ以外はみんな敵。手前の「幸せ」は敵から奪い取って手に入れる。優しさなんて、弱みの同義語だ。

 そんな生き方に染まってしまった仁にとって、高崎家の連中は、あまりにも眩しかった。

「……昔、母さんが言ってた。誰かに優しくできるやつは、誰かに優しくされた人だけだって……あんたの娘たちが、優しい奴らに育ったなら、そりゃあんたのおかげだろ?」

 いつも思い出す度に、胸が痛くなる母の面影。それでも、今この時だけは、不思議と痛くなかった。

全力で砂場遊びに興じる二人を見る。小器用に城郭を組み立てるひよりと、妹のために何度も何度も水を汲みにいく遥。楽しそうに、姉妹でいっしょに笑いながら、「幸せ」そうに。

 ああ、綺麗だなあと。仁は自然と笑みを浮かべていた。

「だからさ、あんたがダメなんてことはねえよ。あいつらもそんなことはぜったい――っ⁉」

 そこで初めて仁は傍らの茜に視線を向けて、驚く。茜は――泣いていた。

「……えっ、あれ? ごめんね、仁君……っ……わた、し……こんな…………」

 ぽろぽろと涙を零しながら、仁の瞳に映る自分を見て、茜はようやく自分が泣いていることに気付いたらしい。

「ひどいよ……びっくりするじゃん。いきなり……そんなこと言うなんて……っ……そんな、嬉しいこと言われたら……わたし……」

 何度も何度も目元をぬぐって、それでも止まらない涙で頬を濡らしながら、茜は笑っていた。

「……なに泣いてんだよ。俺がびっくりするわ」

「だってわたし、仁君に、嫌われてると思ってたし……」

「はあ? なんでそうなるんだよ?」

「だって、いつもウザいって言われてるのに、しつこく絡んで……今日だって、仁君のこと無理やり連れてきたのに……」

「自覚あったのかよ……」

 こくりと頷く茜に、仁はバツが悪そうに舌打ちする。

 ずっと、お気楽な能天気馬鹿だと思っていたが、実際はその逆。嫌われることにビビりながら、それでも先生として生徒にぶつかり続けた、筋金入りの大馬鹿だった。

 今日はこんなのばっかだな、と。一日で発見した茜の新たな一面たちに辟易しながら、仁は視線を外しながら答える。

「どうせあれだろ。俺が元気ないとか思って、子どもの笑顔を見れば元気になるんじゃ、とか考えたんだろ。自分がそうだから俺もーとか、安直な考えで」

「うん……でも、もしかしたら仁君、子ども苦手なのかなって。表情とか見てたら、途中で気付いて……あれ? 失敗したかもって」

「ああ、苦手だよ。正直めっちゃやりづらかった」

「うぅ、やっぱりぃ~」

「……でもまあ、苦手と嫌いは違うだろ」

 この馬鹿教師も、一緒だ。やり辛くてしかたないし、見ているだけで、眩しすぎて目が眩みそうだ。苦手だ。それでも、どうしたって、嫌いになんてなれない。

「仁君、それって……」

「あーーー、忘れろ。今のは訊かなかったことにしろ」

「――っ! ううん、絶対忘れない! 聞かなかったことになんてしてあげないんだから!」

 涙は止まったらしい。いつも通り能天気な、どこまでも明るい笑顔で、茜は悪戯っぽく舌を出して見せる。

 そういう仕草が子どもっぽいんだと、伝えてしまえば、この先生は変わってしまうだろうか。それは少し残念だなと思って、仁はやはり口には出さなかった。


「ふんふんふふーん」

「ふふふふふーんふーんふーん」

 手を繋いで歩く、遥とひより。二人の鼻歌が重なり、少し遅れて歩く仁と茜の耳に響く。

「あの子……遥は、よくひよりのお迎えを?」

「うん。私が遅くなるときは、遥ちゃんがよく行ってくれてる。あと、玲奈ちゃんと由奈ちゃんもたまに」

「ああそっか、四人姉妹って言ってたっけな」

「うん。あっ、今度紹介しよっか? 由奈ちゃんも玲奈ちゃんも、すっごい美人さんなんだから! きっと仁君もびっくりするよ」

「遥が一番上なら、いいとこ小学生でしょ? 俺、年下に興味ないんで」

「……年上が、タイプなの?」

「……まあ、どっちかといえば」

「そっ、そっか……ふーん」

「……変な勘違いすんなよ」

「なっ、なに⁉ 何も勘違いなんてしてないよ、あはは……」

 夕暮れのせいか、心なし顔が赤い茜を横目に、仁は思う。心地良かった。ひよりと遊ぶのも。遥の暴走に付き合うのも。茜が隣にいる時間も。

自分でも驚くほど。それこそ、『先輩』の言う通り、すべてを忘れてしまいそうなほどに。

――けど、だからこそ、自分はここにいてはいけない。

「……先生。俺、帰ります」

「えっ? あっ、そっか。そうだよね。ごめんね、こんな時間まで」

「いや、いいっすよ。俺も楽しかったんで」

「そう? よかったあ、よければまた、ひよりたちと遊んであげてね」

 仁が急に立ち止まったことで、茜との距離が少し開く。その距離が名残惜しいと思ってしまう自分を振り払うように、仁は必至に表情を取り繕う。

「おにいちゃん、かえっちゃうの?」

「今日はありがとうございました、一之瀬さん! また今度!」

「……ああ」

 また今度、とは言わない。幸せをいっぱいに讃えて笑う高崎家の一同を、少し離れたところから見守りながら、胸元を抑える。

 そこにある痛みが、消えることのないように。薄れてしまわないように。自分の一番大切なものを、何度でも思い出して。そこにある『幸せ』に、背を向ける。

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