「しつれいしまーす……って、あれ? 委員長だけか?」

「だから……委員長ではないといつも言ってるでしょう!」

 仁がウキウキ気分で補修室(として使われている空き教室)の扉を開けると、そこには先生の姿はなく、「委員長」こと早川深月(はやかわみつき)だけが一人、机に向かって自習しているところだった。

 艶やかな黒髪が目を引く、凛とした美人。机に向かう姿勢は折り目正しく、真っすぐに伸びた背筋がそのまま本人の実直な人柄を表しているようだった。

 出会い頭の一言としてはさすがに失礼だったのか、声を聞くなり深月は唇を固く引き結び、いかにも気の強そうな目で仁を睨みつけてきた。

「でも早川って委員長っぽいだろ?」

「わけのわからないことを言わないでください! 私は生徒会役員であっても委員会に属しているわけではないと――」

「それよりさ、今日は先生どうかしたのか? 休みだっけ?」

 眉を吊り上げる深月をガン無視しながら、先生の姿を探し始める仁。

 教卓に荷物もないから、ちょうど離席しているわけでもないだろう。となると休みか、あるいは、

「……まだいらっしゃっていません。期末後で終業式も近いですし、お忙しいのでしょう」

「ああ、なるほど。で、委員長はこの間にも自習か」

「ええ。この時間、この場所で勉強するのがルーティーンのようになってしまいまして。一応ある程度勉強を進めておかないと落ち着かなくて」

「さすが、学年トップは言うことが違うな。アスリートみたいで、なんかかっけえ」

「……あなただって、今となってはもう補修を受けるような成績じゃないでしょう。この前の期末試験、数学の点数は上位だったはずです」

「まあな。それなりの点とらないと、根気強く補修に付き合ってくれた先生にも申し訳ねえし。てゆうか、俺の点数なんかよく知ってんな?」

「どっ、どうでもいいでしょうそんなこと⁉ 少し目にとまったから、覚えていただけです!」

 補修といっても、ここは半ば自由参加みたいなものだ。成績が悪くて進級・卒業が危ういから、足りない単位を補うために参加することもあれば、深月のように更なる学力向上を目指して参加する者もいる。

 元々は単に素行不良・成績不振の生徒を矯正するために設けられた補修だったが、高崎先生が受け持ったこの補修で、とある不良生徒が尋常ではない勢いで成績を伸ばした結果、とある成績上位者も自主的に参加を申し出ることとなり、半分勉強会のようになってしまった。

 その「とある成績上位者」は、わずかに頬を赤くしながら、馴れ馴れしく隣の席に座った男を睨んでいる。

 一方の「とある不良生徒」はといえば、こちらはこちらで一人虚空を睨んで何か考え込んでいるようだった。

「……先生、確か今年は三年のクラスの受け持ちだったよな?」

「ええ。確か、三年二組の副担任でいらしたはずです」

「三年つったら、受験だよな?」

「もちろん。私たちも来年の今頃は、来るべき試験に向けて追い込みをかける頃でしょう」

「てことはやっぱり、担当する先生も大変なんだよな?」

 仁が何を言おうとしているのかを察した深月の顔が、わずかに強張る。しかし、動揺を表に出すことはせず、努めて平静を装って、その問いに答えた。

「そうですね。やはり、人生を左右する重要な時期ですから。学力・メンタル共に、サポートを担当する先生方の負担は相応に大きいものだと思います」

「だよな……」

 一瞬の沈黙。

 目にかかる長めの前髪を指で弄るその仕草は、仁が何かを考え込んでいる時の癖だ。かれこれ一年半の付き合いになる深月は、基本的に軽薄な態度を崩さない少年の心理も、ある程度読み解けるようになってきていた。

 故に、次に仁が何と言うのか、ある程度予想できてしまう。だからこそ、深月はその表情を僅かに曇らせる。それに気づいているのかいないのか、仁は何か思い至ったように口を開いた。

「あのさ……いいんちょ」

「――ごめん、遅れちゃった!」

 仁の言葉は、勢いよくドアを開く音によって掻き消された。

 突然の出来事に、仁も深月も、咄嗟に入口のほうへと視線が吸い寄せられる。

「ああ、よかったぁ。二人ともごめんね。今日の補修、始めよっか」

 申し訳なさそうに眉尻を下げて、ふにゃっと笑う女性が、そこに立っていた。

 ブラウン系の少し癖のある髪を一纏めにして、右肩から前に流す清楚な髪型。しかし、外見で先生らしいと言えるのはそのくらいだ。

顔立ちは一言でいえば童顔。下手すると十代に間違われそうな若々しさであり、丸みを帯びた輪郭に垂れ目がちな目元も合わさって、おっとりした雰囲気を漂わせている。どこか間延びした喋り方もあわさって、世間知らずのお嬢さんのような、素朴な印象を受ける女性。

 高崎茜(たかさきあかね)。仁の補修担当の先生だ。

 今もぽやっとした緊張感のない笑みを向ける茜に、仁は困ったように頬を掻く。

「あー、先生? 大丈夫なんすか。最近、忙しかったりするんじゃ……」

「うん? あーごめんね、遅刻しちゃって。心配させちゃった?」

「心配っつうか……最近暑いし、オーバーワークは普通に身体に悪いっすよ?」

「……そうだね、やること多いのはその通り」

 一瞬、目を伏せる茜。けどそれもほんの一瞬だった。

 でもね、と。不安そうにする仁に対して、茜は心配いらないとばかりに笑ってみせる。

「でも、先生は生徒の将来のためにがんばるお仕事だから。誰かのために、私にできることがたくさんあるっていうのは、それはそれで嬉しいことなんだよ」

「……そういうもんっすか」

 迷いはなく。今の自分が幸せだと、言葉でなく宣言するような。そんな真っすぐな笑顔を向けられた仁は、何も言わずに視線を逸らした。

 茜は気づかない。仁の頬がわずかに紅くなっていることも、その理由も。

 ただ一人、仁の反応を横から眺めていた深月だけが、仁の赤くなった耳に気付いていた。

「さあっ! というわけで、今日も補修始めよっか。遅れちゃったけど、二人とも時間大丈夫?」 

「私は問題ありません」

「……俺も。今日はバイトないんで、大丈夫っす」

「よし。じゃあ、今日は数学の模擬テストやろっか。期末の復習も兼ねて、ね」

 茜が鞄の中から数枚の問題用紙を取り出し、生徒たちの前に置く。

 途端に、二人の表情が変わる。それぞれに様々な思いを抱える仁と深月も、差し当たって目前にある試験に向けて集中を高めていく。

 完全にスイッチの入った二人の様子を見て、茜は満足そうに微笑むと、腕時計に目を落とす。

「じゃあ、私の時計で十七時まで……よーい、はじめっ」

 時計の長針が十二を刻んだ瞬間、二人はすばやく問題文に目を通し、ペンを走らせ始めた。

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