26

一之瀬仁は、何の変哲もない普通の家庭に生まれた。会社員の父と、パン屋のパートの母。特別裕福ではなかったけれど、特に不自由することもなく。両親は仁を愛し、仁も両親を愛していた。幸せ、だったのだ。

 それがおかしくなったのが、仁が九歳のころ。母のパート先の友達が、独立して店舗を持ちたいと言い出した。融資を受けるために保証人がいる。そう言って、母に保証人になってくれるように頼み込んだ。

 最初は渋っていた母も、夢を叶えたいと強く頼み込む友人に押され、最終的には承諾した。 そして、その友人は蒸発した。友人の借金は保証人の母に請求が来るようになり、しかもその融資を行ったのは、いわゆる闇金業者だったらしい。

 鳴りやまない催促の電話。しょっちゅう家にヤクザまがいの男たちが押しかけ、扉を乱暴に叩いて怒鳴っていく。父や母の仕事の収入も、大半は借金の返済に充てられ、わずかに残ったお金でギリギリまで切り詰めて、それでようやく三人で生活していた。

「ごめんね。ごめんね、仁。だめなお母さんでごめんね」

 母は、いつも泣いていた。ぜんぶ自分のせいだ、騙された自分が悪いのだと思い、ずっと自分を責め続けていた。

「そんなことないよ。おれ、母さんのこと、大好きだよ」

「ごめんね。ごめんね。私なんかがお母さんで、ごめんね」

「泣かないで、母さん。おれは平気だよ。父さんと母さんがいれば、へっちゃらだよ」

「ごめんね。ごめんね……弱いお母さんで、ごめんね」

 そして、仁が十二歳になった年。母は自宅で首を吊って自殺した。小学校から帰宅した仁が発見した時には、すでに母は事切れていた。仁は、わけがわからなかった。

 母は優しい人だった。仁が寂しく泣いてるとき、いつもそばにいてくれた。お腹が空いたら、美味しいパンを焼いてくれた。

 困っている友人を助けたくて、誰かの夢を応援したくて、優しくあれる人だった。なのになんで、お母さんが死ななければいけなかったんだ?

 御伽噺で最後に報いを受けるのは、誰かを不幸にした悪者だ。誰かを守るため、誰かの幸せを願っていた優しい人たちは、みんな最後には幸せになるんだ。

 お母さんは何も悪いことはしていないのに。誰かを幸せにできる人だったのに。どうして、こんなことになったんだ?


 そんなある日、仁は学校の帰り道、たまたま通った商店街で、路地裏に入っていく男を見た。そいつは、仁の家に度々怒鳴り込んできたヤクザの男だった。

 怒りと恨みに突き動かされるまま、仁はそいつを追いかけた。その先で、驚くべきものを見た。

 その男と、母に借金を押し付けた友人が、愛おしそうに抱き合っていた。父と母が昔、毎朝仕事へ行く前にやっていたみたいに。けばけばしいネオンの光の下で、ヤクザとその女は仲睦まじく絡み合い、唇を重ねていた。

 物陰に隠れて二人の会話を盗み聞いた仁は、全ての真実を知った。母は嵌められたのだ。最初から、ぜんぶ金を巻き上げるための仕掛けだった。騙されやすような人のいい女から、何もかも奪い取るために。そいつらは罠を張った。

 そうしてまんまと母は罠に引っかかり、金も命も失った。代わりに大金を得たそいつらは、心の底から楽しそうに笑いながら、高級そうな料理店に入っていった。

 仁は、警察に駆け込んだ。必死に事情を説明して、あのクソ野郎たちを逮捕してもらえるように掛け合った。けれど、警察はまともに相手してくれなかった。

「めんどくせえな……」

「余計な仕事増やすなよ、クソガキが」

 結局、父が呼び出され。そのまま仁は強制的に家に引き戻された。家で、仁は今日見聞きした全てを語った。

 仁の話を黙って聞いていた父は、話が終わると、一言「今日見たことは忘れろ」とだけ言った。仁は、信じられなかった。

「なんだよそれ。あいつらは、母さんの仇なんだぞ?」

「だからどうしようっていうんだ」

「悪いやつなんだろ? 報いを受けさせてやらないと」

「どうやってだ。おまえも見ただろ。警察は動いちゃくれない。証拠がないからな」

「なんだよそれ? 警察は、正義のために……」

「仕事でやってるだけだ。そういうもんなんだよ、世の中は。まだわからないだろうが、いずれおまえも……」

「じゃあ俺がやってやるよ! あいつらをぶっ殺して――」

「馬鹿なことを言うなっ! おまえの人生まで棒に振ってどうする!」

 その日、仁は知った。

「正義」は人を守ってくれない。憎い敵を殺すことすら、罪だといって許さない。

「悪」は報いを受けるわけじゃない。むしろ人から奪った金で、幸せな毎日を送っていた。

 優しい人が報われるなんてことは、御伽噺の中だけの話で。現実は、悪いことはやったもん勝ちだ。

 他人に優しくしても、幸せになんてなれない。どんな手を使っても、他人を不幸にしてでも。他人から幸せを奪い取ることこそが、自分が幸せになれる道なんだ。

 そう、結論づけた瞬間から。仁には、人生というものが、とてもくだらないものに思えた。

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