終章

凡太の唯一の居場所は、現実へと移り変わった。


彼は今、昼過ぎのくたびれた街と太陽に見守られながら自転車を走らせている。


道は大通りに差し掛かっていた。だが車一台通っていない。


自分だけが取り残されたような世界の中で凡太は気持ちが高ぶり、音程のずれた流行りの歌を口ずさんでいた。一応声量は抑えながら。


右折して細い脇道に入り、そこから更に進んだ所にあるアパートの前に自転車を止めた。


住まいは依然として小汚いが、玄関にあった巨大な埃の塊だけは取り除かれている。


凡太は急な階段を駆け登り、右手にある扉を開けた。


部屋は穏やかな陽光によって暖められている。もうそろそろ掛け布団を一枚閉まってもいい頃合いかもしれない。


梅原の作り上げたゴミの山は、凡太の手によって以前の半分以下にまで片付いていた。それでも尚存在感は抜群だが。


それを作り上げた張本人の梅原は外出している。凡太の働く居酒屋でアルバイトをしているのだ。


凡太が病院に搬送された後、梅原は自分の使命だと感じたのか、居酒屋へ行き事の次第を説明して代役を買って出たのだった。


彼の接客は素人のそれにしても目も当てられないものだったらしいが、珍しい事に文句も言わず黙々と働き続ける梅原を店長が気に入り、正式にアルバイトとして店に仲間入りをした。


そして今夜、凡太の退院を機に梅原の歓迎会が行われる。


今は一度店に立ち寄った帰りだった。店長に謝罪しに行くのは緊張したが、店で昼から管を巻く常連と店長にはとても心配された。梅原が気を利かせたようで、凡太は階段から転落した事になっていたからだ。


歓迎会には小鳥遊さんも来る予定だ。彼女も心配していたと店長に聞かされた時、胸が熱くなり、夢で彼女にした告白を思い出した。


あれから夢は一度も見ていない。健康も取り戻した、またいずれ夢を見るだろうが、もうあの頃のようにのめり込みはしないだろう。


退院した凡太がまず行ったのは、夢を綴った日記を燃やす事であった。


捨てても良かったのだが、どうしても自分の手でけじめを付けたいと思い、風呂場に灰皿を置き、その上で火を付け、最後の瞬間を待った。


日記は呆気ない程によく燃え、何もかもが灰に変わった。


また読めば脳内に景色が浮かび上がり、凡太はもう二度とこちらへと戻ってくる事は無かっただろう。


こうして架空の冒険譚は遂にこの世から葬られたのだ。


(何を着て行こうかな。)

さほど多くもない私服を引っ張り出し、鼻歌を歌いながら選んだ。


だが夜まではまだ時間がある。久しぶりに自転車を漕いだら疲れてしまった。


凡太は目覚ましをかけ、布団に入って目を閉じた。


(小鳥遊さんに今夜言ってしまおうか……でもまだ……)


暫くは妄想に耽っていた凡太だったが、微睡み始めた意識に身を委ねた。






凡太は夢を見た。


今となっては懐かしい、母と過ごした家に続くトンネルを素通りするだけの、短い夢だ。




〜完〜

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夢を喰らう鯨 おーるぼん @orbonbon

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