追憶 6

日記を読んでいた凡太の顔を上げさせたのは、自分自身の綴った冒険譚と己の手を赤く染めた夕陽だった。


(もうこんな時間か。)

梅原はいつの間にか何処かへ行ってしまったようだ。身動きもせず、いつも殆ど同じ場所に配置されている本を読む男の像はこの部屋から姿を消していた。


まあどうでも良い事だ。運転さえしていなければ。二人は車を所有していないので心配する必要も無いが。


空腹を感じ、凡太は財布と煙草をポケットに押し込んで外へ繰り出した。身だしなみを整えると言う選択肢は微塵も無かった。


歩き出してから自転車の方が早かったと気が付いたが戻るのは面倒だった。時既に遅しと、足を動かしながら煙草に火を付ける。


常々思う。何故こんなにも現実はつまらないのだろうかと。


凡太の卑屈な性格が現実をつまらなくしている一番の原因である事は自分自身最も良く分かっているのだが……職種を変えたり、住処や環境を変えた所で魅力的な物事が始まる可能性はこれっぽっちも見当たらない。非現実的な現象を頑なに拒絶する、頑固で一辺倒な現実が不愉快で仕方が無かった。


そんな物思いに耽っていると、目的地であるコンビニは目前となっていた。凡太は揉み消した煙草を地面に投げ捨て、店に入った。


店内ではサンドイッチを適当に一つ掴み取り会計を済ませた。所要時間は一分に満たなかった。


表へ出てから確認すると、手に持っていたのは生クリームと苺の挟み込まれている物だった。


最近ではデザートを模したサンドイッチが売られている。それは知っているのだが、碌に商品も見ずにレジまで持って行く凡太はこうして夕飯が甘味になる事がしばしばあるのだ。


まあそれも自らの過ちだ。別に不満は無かった。食べられれば死にはしないのだから。


(いや、いっそ死んでしまえればどんなに楽だろうか。)


そんな言葉を思い浮かべてはいるが、実行する勇気も無い自分に嫌気が差す。サンドイッチの封を切り、歩きながら全て平らげた。


ふと気が付けば太陽はその身を隠し、既に闇が街を占拠していた。


日記を読み終えたらすぐに眠ってしまえれば理想的だったが、空腹に耐えられなかった。


お陰で時間を無駄にしてしまった。短時間とは言え貴重な睡眠時間を現実に費やしてしまった事を考えると、先程の自己嫌悪など可愛いものだ。


ぼんやり生きている暇は無い。凡太はすぐにでも怪物を退け、羽も持たずに空を飛び回り、思い出の景色を探し出す旅に出発すると言う使命があるのだ。


急いで家に戻り、部屋の扉を開けると、梅原が帰宅していた。


いつもの空間にすっぽりと収まっている彼は、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を険しい顔で読み進めている。


恐らく梅原が持ち帰ってきたであろう。自身の寝床の上に置かれた片方の赤いハイヒールを見た凡太は、拾い主に返却する為に蹴り飛ばした。


『凡太……最近何かやつれてない?』

梅原は顔を上げると、驚いたような表情でそう言った。やはりと言うべきか、謝罪の言葉は出てこない。


『何だよ、そんな事無いだろ。』

そう言うと、凡太は洗面台へと向かった。


右下に罅が入り、名前も分からない小さな虫を随所に散りばめた鏡の前に立ち、中からこちらを見つめ返している自分を観察した。


髪は脂ぎってぼさぼさになり、休日の為髭も剃っていない顎周りは胡麻塩頭をひっくり返したようだ。


頰も随分と痩けている。ただ、一つだけ凡太にはやつれている人間の必需品が欠けていた。


それは目玉だ。充血も隈も無く、目蓋の裏にある世界を見つめる為の二つの眼球だけは瑞々しい輝きを残している。睡眠を充分に取っている証だ。


『全然大丈夫じゃないか。』

凡太は鼻を鳴らし、布団に潜り込んだ。


自分がどうなろうが関係無い。この時だけが唯一の楽しみなのだ。


『……おやすみ。』

梅原はそれ以上、何も言わなかった。






四章 追憶 終わり

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