追憶 5

○九年七月三日


夢は車内から始まった。


五月の夢と言い、ここ最近何かと車に乗せられる事が多い気がする。


空は晴れ渡っており、夢は暦通り蒸し暑いものとなっているようだ。


窓を全開にした。鉄砲水の如く勢い良く飛び込んで来る風が後部座席にいる凡太の脇を心地良く通り過ぎる。


外出する夢は今の所殆ど晴天だった。自然と気分も晴れやかなものとなる。


そもそも、夢での雨天自体が少ないと言えよう。多くの人がそうであるように、凡太は雨があまり好きではない。それと関係があるのだろうか。



仮にそうだったとして、望んだ状況が夢にある程度反映されると言う点は認知している。しかし、何故悪夢は凡太の希望で避けられないのだろうか。好き好んで悪夢に身を投じている者などいないはずだ。


『もうちょっとで着くみたいだよ。』


のんびりとした声でそう告げたのは運転席に座る梅原だった。芽生えていた疑問は彼のこの一声により、刈り取られてしまった。


この時点での梅原の出現率は微々たるものである。流石に現段階では顔を見ただけで嫌悪感を示す程では無いのだが、凡太の眉間には皺が寄り集まっていた。


何故なら、梅原は運転免許を所有していないからだ。


勿論それは現実の話なのだが、だからと言って警戒しない訳にはいかない。大丈夫だろうか、まさか、これは事故に巻き込まれてしまう展開へと繋がる悪夢なのだろうか。


『凡太君顔怖いよ、どうかしたの?』


苦い顔をしていた凡太は漸く隣に座っていた人物に気が付いた。彼女は小鳥遊さんと言う名の女性だ。眉尻を下げ心配そうにしている顔が可愛らしい。


小鳥遊さんとは凡太がアルバイトをしている居酒屋で知り合った。


一つ年上である彼女は鈍臭い凡太に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。そのお陰で凡太は自分自身一番苦手な職業だろうと敬遠していたサービス業でも問題無く働けるまでに成長し、店長は凡太がここまで仕事が出来ると思わなかったと賞賛してくれるまでとなった。


小鳥遊さんにはとても感謝している。こんな危険な状況に放置していて良いはずが無い。


『いえ、ただこの暑さで少し疲れてしまったのかもしれませんね。』


小鳥遊に気取られぬよう、出来るだけ平静を装いながらそう伝えた。


『そう言う事なら休憩を挟んでもいいんじゃない?私も喉乾いたし。』


助手席からも声が上がった。その人物は後ろを振り返り、凡太だけに分かるよう、意味有りげな微笑みをこちらへと向けた。


言葉が出なかった。助手席に居たのは以前二人で海を探しに行った、あの女性だった。


『うん、分かったよ。』


梅原はそう言って左に車を寄せる。そこに丁度良くサービスエリアが見えてきた。


凡太は運転席へと視線を移動させた。

今のやけに素直な一言に違和感を覚えていたが、それは彼が女性陣の同乗しているお陰で、火に油どころか手当たり次第注ぎ込もうとするようないつもの口調と態度を改めているのだと悟った。


(これは楽しい夢になるかもな、〝あれ〟と会話する際のストレスが大幅に軽減される。)


いや、余計な事を考えている場合では無い。せめて彼女達だけでも安全な場所へと送り届けなければならないのだ。


車両の群れの一画に車は止まった。風の消えた車内には我先にと熱気が雪崩れ込んで来る。それに追い出されるように、ドアを開け外へ出た。


梅原と助手席の女性は脱兎の如く各々好きな方向へ走り去った。小鳥遊が凡太に近寄る。


『凡太君、具合はどう?ここ暑いから店内に行こうよ。』


『そうですね、トイレに行った後で僕も向かいます。』


本当なら小鳥遊さんと雑談でもしていたい所だが、運転手の交代が先決だ。


トイレには向かわず、自販機で缶コーヒーを買った。奴は喫煙所だろう。サービスエリアの端にある硝子張りの建物に向かうと、予想通り梅原が煙草を燻らせているのを発見した。


『梅原、ちょっといいか?』


『何?』


梅原は気怠げだった。女性が同行している事でこの男も気を遣っているらしい。今は普段の状態へ戻っている。一目見ただけではっきりと分かった。


『疲れただろ、運転俺が代わるよ。』


『いいよ、あと少しで着くからね。それに帰りは凡太だから、今交代するって言うのはあまり……』


『気にするなよ、嫌いじゃないからさ。それよりこれやるよ、運転お疲れさん。』


梅原の言葉を遮り、先程買った缶コーヒーを手渡した。


『おお、ありがとう。』


『じゃあまた後で。』


凡太がそう言うと、梅原は首を縦に振った。これで大丈夫だ。


早々に喫煙所から抜け出し、小鳥遊の元へと足を進める。


あれで梅原は運転席を譲ってくれるだろう。彼の理屈っぽさは昔から変わらず、代価と引き換えにすれば相殺させる事が出来た。


後は全て自らの手に懸かっている。安全運転を心掛ければ問題無い。最悪の結末からは逃れられたはずだ。




店内に入ると、すぐに小鳥遊を見つけた。


人でごった返しているフードコートのテーブルで一人、退屈そうに頬杖をついている小鳥遊の正面に座った。


『もう!凡太くん煙草吸ってたでしょ、具合悪いって言ってたのに。』


小鳥遊は口を尖らせている。だが本気では怒っていない。その証拠に暫く困り顔で見つめ返していると、口元が段々と緩み、笑いを堪える為に震えている。


『ごめんなさい、体調はもう良くなったのでつい。』


『ううん、ちょっと退屈だったから意地悪してみたの、ごめんね。』


そう言って可笑しそうに笑っている小鳥遊を見るとこちらまで愉快になる。


『他の二人は?』


『梅原は喫煙所、あの人は……見ていませんね。』


『あの人、って呼ぶんだね。』

小鳥遊はきょとんとした顔で凡太を見つめる。


(そうだ、この際小鳥遊さんに教えて貰おう。)


『ええ、実はあの人の名前を知らないんです。今更聞き辛いのもあって。小鳥遊さん、知っていたら教えて貰えませんか?』


『そうなんだ、結構仲良さそうなのに。あの子の名前は…………』


小鳥遊の声が彼女の名前を発する時、何故か靄がかかったようにくぐもった音でしか耳に届いて来ない。二、三度聞き返したが、どうしても聞き取ることが出来無かった。


(これはどう言った現象なんだろう。)

小鳥遊にこれ以上しつこく聞くのも躊躇われたので凡太は話題を変えた。


何とか聞き取れた名前の頭文字は、Rになると思われる。


R……ひとまず彼女を指す時はそう呼ぶ事とする。


雑談の後、冷房が肌寒く感じてきた二人は車へと戻る事にした。


喫煙所に立ち寄ると、梅原は先程と全く同じ位置に座っていた。もう何本目なのか、煙草へ火を付けようとしていた梅原を制止させ車に誘導する。


駐車場には似たような形状の車が多く、辿り着くのに少なからずの時間を消費した。


そこにあった車は既に青い車体を小刻みに震わせていた。凡太達を乗せ風を切って駆け回るのを待ち侘びていたのは車だけでは無かったらしい。運転席にはRが座っている。


『あのさ、運転は俺が……』


『いいじゃん、退屈してたんだもん。』

そう言ってRは屈託無い笑顔を向ける。


問題は無い。問題は無いのだが、それは二人きりならばの話だ。


彼女は少し、いやかなり運転が荒い。小鳥遊を乗せている今は適任とは言えない。


『ごめん、やっぱり運転は俺がやるよ。』


そう言い終える前に、Rは素早く耳打ちしてきた。


『私にだって他人を気遣う事くらい出来るのよ。』


Rは後部座席に座った小鳥遊と梅原のうち、小鳥遊だけに一瞥をくれた。考えはお見通し、とでも言いたいのだろう。


『仕方無いな。』

凡太は投げやりに呟き、助手席に座った。ここはRに任せるとしよう。


そうして四人を乗せた車は発進し、サービスエリアは一般的と呼ばれる速度よりも幾分早く、遠く、小さくなり、そして見えなくなった。


……話が違うではないか。

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