追憶 4
○九年五月五日
『ほら、いつまで寝てるの?早くしないと間に合わないよ。』
凡太は穏やかな陽気に誘われ、縁側で微睡みの中を漂っていた。
畳の匂いに懐かしさを呼び覚まされ、目を開けると、やはり室内は和室だった。煙草のヤニで黄ばんだ扇風機、そして蚊帳の中には敷かれたままの布団がすっぽりと収まっている。随分と古い家だ。だがとても落ち着く。
『ねえ、聞いてるの?』
その声に視線を外へと向けると、目の前では名も知らぬ女性が凡太に微笑んでいた。
女性は赤みがかった長髪でサングラスを掛けている。服は真紅に染まったシャツと、丈の短いジーンズ生地のパンツ。なかなか派手好きなようだ。
端正な顔立ちで子供っぽい笑みを浮かべる彼女はとても美しく、凡太は暫く見惚れていた。
沈黙が続き、次第に彼女の顔が曇りがかってきた。凡太の返事を待っているのだ。
『ああごめん、すぐ行くよ。』
寝起きの掠れた声で返事をすると、彼女は呆れたような表情で車へと戻った。
すぐ行く、とは言ったが準備も何もしていない。何せこちらは今夢が始まったばかりなのだ。
だが、近くに置かれていた姿見を覗き込み、自分が余所行きの服を既に身に付けている事に気付いた凡太は彼女の待つ車に走った。
車は女性のシャツ同様、毒々しい程に赤い。車種には詳しくないが、恐らくスポーツカーだろう。
この車が自分の物か、彼女の物なのか分からなかったのでゆっくりとドアを閉めた。
『さあ出発しましょう、シートベルトは付けてね。』
『勿論。』
その直後、車は庭に敷かれた砂利を全方位に撒き散らしながら車道に飛び出し、凄まじい勢いで風を切って走り出した。
(お転婆な性格にも程がある。スピード出し過ぎだ。)
減速させる為、呼び掛けようとした凡太は思い出した。彼女の名前を知らない事を。
口調からはある程度の親交があるのは察せられるが、それでは尚の事名前など聞き辛い。
『あのさ、スピード早くないか?』
『そう?凡太だって喜んでたじゃない。』
『そ、そうだったかな。』
凡太は現実だろうが夢の中で運転する軽トラックだろうが暴走行為はしない。人違いではないだろうか。
『それに、早く海を見たいんだもの。』
(海に行く予定なのか。)
辺りの景色は緑一色に染まっている。海まではまだ距離があるのだろう。だからと言って荒い運転をしても良い理由にはならないが。
説得を諦めた凡太は景色から目を離し、凄まじい勢いで流れゆく川のような道路を眺めていた。すると、目の前の道に突如として小さな影が浮かび上がった。
『おい!!』
間に合わなかった、車体の下に吸い込まれた幼児は、ぷちりと肉体の爆ぜる音を鼓膜に残し、後方へと流れていった。
即座に座席から振り返ると、その姿が視界から消え去るまで、幼児は紙で作られているかの如くひらひらと低空に浮かんでいた。
『びっくりした、急に大きな声出さないでよ。』
『は?お、お前今…』
『…どうかしたの?』
彼女は不安そうに凡太を見つめる。
『いや今、何か轢いたような気がして…』
やっとの事で言葉を発した。
『何も、いなかったと思うけど。』
眉をひそめていた彼女は、慌てて凡太から前方へと視線を移した。
気のせいだったのだろうか。しかしあの光景は未だ脳裏に焼き付いている。奇妙な最期も、幼児の着る黄色いプレオールが凡太の幼い頃に着せられていた物と酷似していた事も。
だがこんな道路の真ん中に、ましてや歩く事もままならない幼児を一人置き去りにする者が居るだろうか。それに轢かれた直後の姿は何と言えばいいか、実に無機質な印象を受けた。
『大丈夫?』
彼女は凡太を心配したのか、声を掛けてきた。
『大丈夫、変な事言ってごめん。』
(幻だ、見間違いだった。)
そう、自分に言い聞かせた。
その後、女性は先程の事を忘れてしまいそうな程よく喋った。気を遣ってくれているのだろう。
彼女は凡太と幼い頃から学生時代までの共に過ごした思い出の数々を語り、今は二人でやった悪戯の話を特に楽しそうな表情で話していた。
凡太は聞き手に回り、ひたすら相槌を打つ。
その間に凡太は一つの結論を出した。彼女は恐らく、凡太の理想としている女性像が何らかの理由によりこちら側に誕生した姿なのだろうと。
過去の記憶を共有する程の仲である架空の人物、と言う何とも形容しがたい存在。話している内容は間違い無く、現実の凡太が経験してきたものだった。彼女の存在を除いては。
彼女は役回りで言えば役者だろうが、こんな人物には今まで出会った事は無い。肥大化した妄想の宇宙が飽和し、夢に溢れ出した欠片が肉体と生命を与えられたとでも言うのだろうか。
(……考えて導き出せる程度の答えなら苦労しない。)
それに低俗な理由だが美人の隣で悩み耽ているだけでは損だろう。凡太は開き直り、思考の全てを放棄した。
『ちょっとは元気になったみたいだね。じゃあ休憩にしようか。』
彼女は考えを見透かしたような一瞥をくれるとウインカーを点滅させた。凡太は赤面してしまい、その顔は窓の外に逃げ場を求めた。
左折した先は砂利道だった。車の腹に小石が当たりこつこつと音を立てているが、ここでも彼女は速度を落とす事はしない。
『車、傷付くんじゃないか?』
『大丈夫だよ、傷があるか見なければいいもん。』
彼女はくすくすと笑った。
全く意に介していない。車は彼女の所有物と見て間違い無さそうだ。それにしてもあまりにも大雑把な理由である。
『凡太見て、まだあったよ!』
彼女がそう言った途端、車は急ブレーキで止まり、凡太は頭部をダッシュボードにぶつけた。
彼女がドアを開けたまま走ってゆくのが見える。不満を述べる隙も与えられなかった。
頭を摩りながら後を追うと、向かった先である脇道の奥には、ひっそりと佇む古めかしい家屋があった。その中へと手招きするように、揺れた赤みのある長髪がちらりと見えた。
家屋に続いている道の両脇には花壇が整列しており、色とりどりの花は夕陽に照らされ大半が橙色に染まっている。
何故か太陽には目もくれず、背の高い雑草に紛れて侵入者へと複眼のような大粒の種を向ける向日葵達を訝しげに思いながら通り過ぎた凡太の耳に、歳を重ねた女性のものと思われる声と、彼女の子供っぽい笑い声が聞こえた。
家の前まで着いた凡太が中を覗き込むと、そこは小さな駄菓子屋だった。
この店には見覚えがある。幼い頃に住んでいた家の近くにあった駄菓子屋だ。小遣いを使い果たしてしまった子供達にも他の子には内緒だよ、と菓子をこっそりと渡していた心優しい老婦人が印象に残っている。かく言う凡太もアイスを貰った記憶があった。
店内では昔と変わらぬ姿をした老婦人が優しげな表情で彼女が駄菓子を選んでいる様子を見守っていた。右手に所持している算盤は未だ現役なのだろう。何だか懐かしさで涙すら出そうになってしまう。
『あ!凡太、遅いから選んじゃったよ。』
彼女は老婦人に向けていた笑顔を幾分、大人びた表情に変化させ、こちらへと笑い掛ける。
それを見た老婦人が凡太に顔を向けたので、小さく会釈をした。
『懐かしいなあ。ねえ、ちょっと休んで行こう。』
会計を済ませた二人は外に置かれていたベンチに腰を下ろした。
『はいこれ。』
彼女に瓶と駄菓子を手渡された。
駄菓子は凡太が好んでいた物ばかりだった。瓶の中身はコーラに似ているが更に赤みが強い。
試しに少量飲んでみると、やはりコーラに近いが果実味が強く、後味がさっぱりとしたものだった。ふとこの飲料にも懐かしさを感じさせられたが、こちらは思い出せそうにもない。
『これさ、モンダンって名前の飲み物なんだって。あんまり知らないけど、これを作ってる会社が裏でモンスターの軍団を操ってて、それの略でモンダン……って言う噂があるらしいよ。』
『そうなんだ…何か、語呂が悪いね。』
全く聞き覚えの無い名前だ。
『私も思った。』
彼女はそう言って笑った。本当によく笑う人だ。
『それよりお金返すよ、いくらだった?』
『返してもらう程は使ってないよ。そんな事より、そろそろ行かないと日が暮れちゃう。』
彼女は凡太を置き去りに、車へと再び走り出した。
出遅れた凡太はゴミを片付けようと掻き集めるが、その手にそっと深く皺の刻まれた手が添えられた。
顔を上げれば老婦人がいつの間にか凡太の側に立っており、走り去る彼女を見やり、首を横に振ってから微笑み掛けてきた。
いいから行って、とでも言いたいのだろうか。
少し迷った後、頭を下げて車へと戻った。
その後、暫く車を走らせていたが、彼女は黙り込んでしまい、車内は固い沈黙に覆われていた。
機嫌が悪い訳では無さそうだが、横顔が何処か悲しそうに見える。
『どうした、道に迷ったの?何回も道を変えたりしてるけど。』
『違うよ、今日はあれを見つけるって言ったじゃん。』
口調で分かる、今度こそ不機嫌になってしまった。
ここに来て夢に入り込む以前の約束事で咎められてしまうのは理不尽に感じるが、そんな事は説明のしようが無い。凡太も沈黙を決め込む事にした。
不意にブレーキが掛かる、今回は何処もぶつけずに済んだ。
『ダメだっ、見つからない。』
彼女の嘆きが車内に響いた。確かにそうだろう、少なくとも付近には海のありそうな気配は無い。
『私も、詳しくは言ってなかったけど』
彼女はぽつりぽつりと話し始めた。そっと耳を傾ける。
『小学校の頃二人でさ、自転車でこの辺りまで来た時に見えた海。あの時の景色が忘れられないの。だから今日、どうしても見つけたかった。』
彼女は溜息を漏らした。
(二人で見た景色……か。)
何だかこそばゆい感じだ。
凡太には一人で出掛けた時、丘から見えた海に感動してしまった記憶ならある。これはその時と同じものなのだろうか。
今では薄く、遠くなっていた記憶だ。既に思い出そうとしても海は朧げであり、どうしてもぼやけてしまう。彼女はそうなる事を恐れ、凡太を誘ったのかもしれない。
『もう、帰ろうか。』
『……もう少し探そうよ、俺も見てみたい。』
彼女は意外そうな顔をした後、ぱっと顔を輝かせ、車を急発進させた。その所為でまた頭をぶつけた。
しかし残酷にも、頭部を摩る凡太は今この時、覚醒が訪れようとしているのを瞬時に理解した。
(待ってくれよ。俺の夢なら、もう少し見させてくれたって罰は当たらないだろ。もう少しだけでいい……)
夕焼けが月を合間に置かず、朝の太陽へと転生を遂げる最中、考えていた。
見る者のいなくなった夢はどうなるのだろう。幻のように消えてしまうのだろうか。それとも彼女の記憶の中にあった、自分ではない自分が物語を引き継ぐのだろうか。
彼女は夢の中の、もう一人の凡太と、海を見つけられたのだろうか……
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