追憶 3
次は◯9年4月22日だ。
その後も日記を付けようとはしていたのだが、目覚めるとどうしてもぼんやりとしか思い出せず、記憶は文字通り夢幻と消え、四ヶ月もの期間を空白で埋めた。
悪夢も愉快な夢も数多く見た。書き留める事が出来無かったのが非常に残念でならない。
この世界では長い距離を移動しているようだ。何処かへと旅をしている最中なのか、そうでないのかは分からない。
途中で列車にも乗れぬ程金銭面に余裕が無くなり、働きに出ると決めた。
そんな凡太は仕事先に向かっている最中だった。明晰夢ではないのだが、何故夢の中ですら働かねばいけないのかと面倒に思っていた記憶がある。
だが、一日働けば何と五万も貰えるらしい。今日を耐えれば当分の間、資金繰りには悩まされずに済むのだ。
『お金に困っているとの事でしたが、作業を行うのは丁度この町の駅なので、交通費の心配は要りませんよ。』
簡単な面接でそう告げた駅務員だと言う男は、何処か冷酷そうな目をしていた。
しかし、スーツをだらしなく着崩したやる気の無さそうな人物であり、交通費よりも仕事の方が心配になった。
今はその男に連れられ駅の裏手側を歩いている。この町は随分と田舎だ。周囲には民家も見当たらず、雑草は生い茂ったままになっている。
景色を眺め、ぼんやりと歩いていると目的地に到着したらしく、錆の浮いた柵が男の手によって開かれるのが見えた。
『細かい作業内容まではお伝えしていませんでしたね。実は前にいた清掃業者が仕事を放棄してしまいまして、コンクリートの残骸がこの先の地下に大量に放置されているのです。それを掃除して頂きたい。』
(重労働じゃないか。)
男は説明を終えると、駅とは反対の方角へ歩いて行った。全て口頭だけで済ませるとは出鱈目な性格の男だ。清掃業者に仕事を放り出されるのも納得出来る。
(まあ一人の方が気楽でいいか。)
置かれているバケツは重かった。中を見てみると、箒、がら袋、塵取りの他に懐中電灯と小型の送風機がある。送風機は内部での換気の為に用意されたのだろうが、この大きさでは心許ない。
目の前の鉄の扉を押し開けると、地下へと続く大きな口が開いた。
そして急勾配の階段を、凡太は足元を照らしながら降りて行った。
地下空間は非常に入り組んでいて、全く光の差し込まない陰気な場所だった。
各部屋への移動手段は丸く開けられた大きな横穴だけだ。しかも中は蒸し暑く、流れ出る汗は留まる所を知らない。やはり空気の流れが悪いのだろう。
(少し休憩しようか。でもまたここまで戻って来るのも面倒だし……)
凡太はそう悩みながらも、とりあえずは清掃を続けていた。一番奥の部屋から始め、溜まったゴミを横穴から入口に近い方向へと放り投げる。それが終わると次の部屋に取り掛かるのだ。
(換気の面と蒸し暑さが問題だけど、家具を置いたら隠れ家みたいで面白そうだな。ただ電気が通ってないのは致命的か。運び入れるのも大変そうだし、そもそも大きい物は穴を通過出来ないかも。)余計な事でも考えていなければ、暑さでおかしくなってしまいそうだった。
あといくつ部屋があるのだろう。全て完了するまで働いて欲しいなどと頼まれては身が持たない。間違い無く一人でやる仕事では無いだろう。
瓦礫を入れた袋は数を増し、いつの間にか服はずぶ濡れになっていた。
もう駄目だ。いい加減休憩するとしよう。低い天井にぶら下げ照明の代わりにしていた懐中電灯を取り、外へ向かった。
重苦しい扉を開けた凡太の脇を外気が心地良く通り過ぎる。大きく伸びをして扉の前に座り込んだ。
ポケットから取り出した煙草は少し湿っていた。服がぐっしょりと濡れる程発汗した状態でこれならば、まだ運が良い方であろう。
『お疲れ様です、中は暑いでしょう。』
湿気った煙草を燻らせていると、先程の駅務員の男が扉の裏から顔を出した。
驚きをどうにか押し殺しているような表情をしている男の顔からは汗が滴り落ちていた。
彼は凡太に茶のペットボトルを渡すと、大きな音を立てて柵を閉め、足早に去って行ってしまった。
妙だ。あの男は様子見などしに来る人間とは思えない。それにあの汗の量は尋常では無かった。スーツのまま運動でもしたとなれば話は別だろうが。
(それと確か、扉は開けておいたよな。)
日は傾き始めている。もう少しで解放されると言うのに、何とも不穏な空気だ。
残り何箇所か掃除してゴミを片付けたら終了の報告をすると決め、凡太は煙草を揉み消して人工の洞穴の中へと戻った。
階段の半ばまで来ると、早くも空気に淀みを感じ、熱気が周囲を包んだ。歩いているだけで汗が滲む。
時間の指定はされていない。勝手に切り上げれば文句を言われるかもしれないが、こんな場所で長時間労働するのは土台無理な話だ。
今更ながら説明不足な男に怒りを覚えた。だが高給に何も考えず飛び付いた凡太にも非はある。
『お互い様か……』
そう呟き、横穴を通り抜けた。
何度か穴を潜り、掃除の途中だった部屋を探す。前屈みの姿勢が続き、腰が酷く痛んだ。
丸めた背中を手で摩り、漸く辿り着いたと思った時、部屋にあるはずの瓦礫の山は見当たらなかった。
同じような空間ばかりが続いており、部屋を間違えたのかもしれない。凡太はもう一つ奥に進み、周囲を懐中電灯で照らした。
そこにはまだ掃き集められていない瓦礫の山があった。枝分かれしている道を見付けてしまったのだ。奥にまだまだ掃除していない部屋があると思うと見ているのも嫌になってくる。
ひとまず目的の部屋まで行こうと瓦礫に背を向けたその時、ずるずると何かを引きずるような音が響いた。
それに驚き、凡太は音のした方向に懐中電灯を向けた。
光に照らし出されたのは、鈍い緑色の巨体を持ち、這い蹲る生き物の姿。
鰐だ。いつからここにいたのだろう。
それよりも今は逃げるのが優先だ。
鰐が床より少し高く設置されている穴を通り、移動するのは現状では不可能なはず。そう気付いた凡太はすぐに横穴へ飛び込んだ。
(これで安全だ。)
脅威を前にして、襲われる心配をする必要はまず無いと言う珍しい状態だった。穴から鰐を観察する余裕さえある。
鰐は光を照射されているにも関わらず、微動だにしない。
『死んでるのか?』
呟くと、それに答えるように鰐は閉じていた目を見開いた。
目と目が合わさり、その異質な眼球に睨まれた凡太ははっと息を飲んだ。だがそれでも鰐が動く事は無かった。
こんな恐ろしい場所で仕事など出来るものか。凡太は身を翻し、出口へと周囲を警戒しながら歩き出した。
鰐は、真珠のように純白に輝く瞳をしていた。
外へ出た凡太は直ぐに警察へ通報した。
警察はすぐに駆けつけてくれた。不信感を露骨に漂わせて。
『貴方が通報してくれた方ですかね?』
ずんぐりとした体型で、髪を短く刈り込んだ警察官が話し掛けてきた。
『そうです、今この駅の地下で仕事していたんですが、鰐が居たので連絡しました。』
『鰐ねえ……何でまたこんな所に。』
(こっちが聞きたいくらいだよ。)
状況を話しているうち、パトカーがもう一台現れ警察官は三人になった。いつの間にか柵の外には野次馬目的の人間達が群れを作っている。
『本当に見間違いでは無いんですね?』
『何度言わせるんですか?疑うなら自分で確かめてみればいいでしょう。』
いい加減同じ事ばかり問う目の前の警察官に腹が立ってきた。他の二人は無言で腕を組み、威圧的な視線をこちらに向けている。
しかし、警官が三人いた所で何になると言うのだ。腰に付けた拳銃で鰐を仕留められるとでも考えているのか。まあ、大方悪ふざけだと思っているのだろうが。
堂々巡りの言い合いが続き、場に険悪な雰囲気が漂い始めていた頃、野次馬を掻き分けこちらへと向かってくる人物がいた。
『私はここの責任者です。私にも何が何だかよく分かりませんが……とにかく、大変な思いをさせてしまい申し訳御座いませんでした。』
制服に身を包んでいる男は、凡太に深く頭を下げそう言った。元々は好人物なのであろうその優しげな顔も今は蒼白だった。
状況は警察から知らされているのだろうが、凡太はもう一度掻い摘んで事情を説明した。
『分かりました。地下内部を上から確認出来る点検口がいくつかあります、どうぞこちらへ。』
連れられて行くと、線路脇の草薮にはコンクリートで作られた正方形の重たげな蓋が隠されていた。凡太の記憶を頼りに場所に見当を付け、警察官が二人掛かりで蓋を持ち上げた。
中を懐中電灯で照らすと、偶然にも鰐は真下にいた。
やはり上から光が差し込もうが全く動きを見せない。その堂々たる有様を見ていると、ここで飼育されていると言われても納得してしまいそうだ。
『本当だ。』
制服の男はそう呟き、警官達と何やら話を始めた。
蚊帳の外になってしまった凡太は、すっかり数の減った野次馬達へと視線を送り返していた。そして、一際強くこちらへと向けられている眼差しに気付いた。
人海に身を隠していた人物は紛れも無く、凡太に仕事を与えたあのスーツの男だった。
『すみません。』
凡太は制服の男に話し掛けた。
『人だかりの中にいる……そうです。あのスーツの人に清掃を頼まれて……』
そこまで言うと、制服の男は首を傾げた。
『おかしいですね。関係者は皆、制服の着用を義務づけられています。それに私が仕事に関しての説明を頼んだのは別の職員だったはずですが。』
では、あの男は一体……
振り返ると、スーツの男は人を掻き分け、一刻も早くその場から離れようとしている。
鰐を食い入るように眺めていた警官達にも会話は聞こえていたのか、スーツの男を二人の警官が追い駆けていった。
(あの男は恐らく、鰐を使って俺を殺そうとしていた。)
シャツにじっとりと滲んだ汗は地下に入り込んだ際に発汗したのだろう。それにしても……
何故わざわざ鰐を使ったのだろうか。何故凡太を狙う必要があったのだろうか。
聞きたい事は山程ある。凡太も警官の後に続き、男を追った。
この夢は、次の瞬間覚醒により終わりを迎える。
皮肉にも、凡太が懐に忍ばせていたコンクリートの破片を、血が滴る程強く握り締めた際の痛みが原因だった。
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