鯨の成れの果て 2

(最悪だ…何て事だ…)


便器の底へと転落したと言う事実だけでも胸が悪くなると言うのに、海水の冷たさで危うく心臓麻痺を起こして死んでしまいそうになった。


だが仄暗い海中からは何が飛び出して来るかも分からない。不快感はすぐに頭から拭い取り、緊張感でその身を包んだ。


周囲を見回す。家の真下はごつごつとした岩場になっていたようだ。


光源と見紛う程に赤々とした全身を見せ付けている珊瑚や、極彩色の小さく可愛らしい蛸、岩場の窪みでは青色をした魚が膜のような物体に包まれて眠っている。


そうして海の生物達を観察していると、人間一人丸呑みにするのは容易そうな巨大魚が目の前を通り過ぎた。


幸いにも魚は肉食では無かったのか関心を持たれなかったようだ。もしも敵意があればと想像すると肝が冷える。


とにかく浮上しようと、頭上を見上げた凡太は愕然とした。


便器は下部が狭く、とても這い上がるのは不可能な構造だった。むしろどうやって落下したのだろうか。


焦る気持ちを抑え、別の出口を探した。すると、離れた場所で光が差し込んでいる岩場を発見した。舞い降りる光は救世主の差し伸べた手を連想させる。


急いで泳ぎ出そうとした凡太の耳に、水中を移動する重々しい水音がはっきりと聞こえた。それにより海水と思考が掻き乱された。


薄暗い海中には目が慣れてきていた。凡太は身に迫る何かの輪郭を辛うじて捉えた時、背筋が凍りついた。


この海よりもさらに深い漆黒を身に纏うそれは、信じられない程の巨体を持つ魚だった。鯱か鯨だろうか。


ただ一つだけはっきりとしているのは、凡太へと真っ直ぐに向けられている顔の両端に付いた白濁とした眼球は、間違い無く捕食者のそれだと言う事だ。


暫くの間蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。逃げたくても金縛りに近く、全く身動きが取れなかった。


頑固で臆病な身体は、我先にと逃げ出す小魚達が巻き上げた土埃を皮切りに漸く動き始める。すぐさま向きを変え前方へと進んだ。


しかし、一向に相手を引き離せない。それどころか手足がもつれてしまい次第に減速してゆく。凡太には苛立ちと恐怖までもが魚と並列して迫って来ていた。


光が脱出口であると言う確証も無い。岩場に目を向けるが、逃げ込めそうな深い窪みは無情にも皆無だった。


だがもたつきながらも、徐々に光は近付いて来ている。背後で淡々と凡太を追い続ける魚影との距離も縮まってはいるのだが。


蛙のように蹴り、水を掻き分け死にものぐるいで泳いだ。


そして遂に、光の真下へと到達した凡太は眩んだ目を閉じたまま、掌を上に突き上げた。


両の手は空気に触れた。慌てて左右の板にしがみ付き、上部へと這い上がった。


心臓は胸の中ではち切れんばかりに暴れていた、下から巨大な顔が出て来る可能性も考え、部屋の隅へと這いつくばって進む。


助かった。そう気付いた途端に身体中の力が抜けてゆくのを感じる。


(猿はもういい、部屋に戻りたい。)

これで夢が終わろうとも構わない。用を足して今すぐにでも眠りたかった。


とは言え、少なくともここはあの玩具箱では無いだろう。では一体何処に入り込んでしまったのか。


部屋は四畳半程の広さで洗剤の香りが立ち込めている。これは母の愛用している花の香気を放つ洗剤だ。


中央にはぽっかりと空いた正方形の穴があり、そこは思い出すのも恐ろしい魚の住処である海中に繋がっている。


察するに、この部屋は母の住んでいる方の家の洗い場、なのかもしれない。


だとすると危険だ。母は綺麗好きであり、海水に塗れた状態で歩き回っている所を発見されてしまえば大目玉を喰らってしまう。


転落し、追われ、その上床掃除など堪ったものでは無い。すぐにでもこの家からの脱出を図るべきだ。


(その前に、トイレを探そうか…)

危ない橋を渡る事になるが、そろそろ限界が近かった。


先程の疲れも忘れてしまいそうな程だ。そもそも用を足そうとして転落したのだから仕方が無いだろう。濡れ鼠になってしまい、冷えた身体も尿意に拍車を掛けている。


音を立てぬよう、凡太はそっと洗い場の扉を開けた。


そこは廊下だった。天井は高く、灰色の打放しコンクリートが無表情に凡太を見下ろしている様は閉鎖的な印象を受ける。母は建築業者にでも模様替えを依頼したのだろうか。


足音を殺し、絶えず前後左右を確認しながら他の扉を探した。


薄暗い廊下を暫く歩き続けた先にあったのは、鉄製の何処かの城にでもありそうな大仰な扉だった。


念の為外側から耳を当てる。すると下部の方で轟々と唸りを上げる音が聞こえてきた。この部屋の床下も海へと通じているのだろう。


目的の部屋では無さそうだったが、無意識にドアノブを回していた。部屋の中は装飾も何も無く、灰色の壁が行く手を阻んでいるだけだった。


……違う、足元には梯子が掛けられている。まるで深い深い暗闇へと誘う線路のようだ。


急を要する事態の真っ最中にも関わらず、下にいる何かに手招きされるように。凡太は奈落に向けて梯子を降りていった。

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