二章 鯨の成れの果て

眼が覚めると、凡太は車に揺られていた。


車内は狭いが不快にはならない。それどころか心安らぐ空間と言える。母の運転する軽トラックの助手席だったのだから。


普段は夢に入り込むと棒立ちの状態や単独での目覚めの箇所から始まり、意識の覚醒と共に置かれた現状を考慮して行動するのが基本だった。


「たまにあるけど…まだまだ珍しいパターンだな。」


車中から開幕しようと状況確認する事は変わらない。凡太は寝惚け眼でゆっくりと車内を見回そうとした。


「あら、起きた?」


凡太の独り言に母が反応した。

だがいつもと少し声色が違う。機嫌が悪いのだろうか。


「全く、迎えに来たから掃除も洗濯も出来無かったじゃない。」


母は言葉を続ける。


今が帰宅途中なのは分かった。では一体何処からなのか。凡太は身を乗り出して後方を振り返った。


車体よりも少し下には、青い洋瓦が美しく光を反射して輝いているのが見える。まるで常夏の海のようだった。


(そうか、母さんは昨日の街から俺を乗せて帰る所なのか。)


無論夢に続き物は存在するのだが、場所が前回の地点とかけ離れていたりする。それよりも多いのが自宅から再開する事だ。ただしこちらの場合、目的地の選択がある程度自由になるのでその点は気に入っている。


今回は乗車までの記憶こそ途切れているが、完璧に昨日の続きからだ。


凡太は街をじっと眺め続けていた。希有な事柄の連続に思考が追い付かず、ぼんやりとしていたのもあるが、車窓からの景色に違和感を覚えていたのだ。


だが首が疲れてきた。そうして一旦視線を正面へ戻した時、母が化粧をしていた事に気が付いた。


宿屋の女性と出会うのを予期していたような準備の良さだ。母は簡単な外出ならば眉を整えるだけで終わらせると言うのに。


そもそも、何故居場所を知っていたのだろう。街と母には凡太の知らぬ秘密がありそうだ。


街に現れた魔物や地下の大迷宮、そして母に抱いた疑問。身の内に大きな謎を隠す街の情景を目に焼き付けようと、凡太は今一度振り返った。


すると、違和感の正体が分かった。高低差だ。


洋瓦が下に見えると言う事は今は街よりも高い位置を車で走行している。


草原から見上げた時、周囲は森に囲まれていて上空には何も無かったはずだ。恐る恐る窓から顔を出し、下を確認した。


車は森の木々よりも上、なんと空中を走っていたのだった。


よく見ればタイヤの進みと共に、前方の空間が重さを感じ取り目覚めたかのように輝き出す。軽トラックは敷き詰められた空気の橋を渡っていた。


その橋は湾曲しつつある。この透明な道を速度も落とさずによく走り続けられるものだ。母への謎も深まるばかりだった。


しかし、問いただした所で虫の居所が悪い今の母は答えてはくれないだろう。凡太は何もかもを胸の内に仕舞い込んだ。


(……母さんは、この街に来た事があるのかな?)

疑問が一つ、取り残された。


その所為で会話は上の空だった。とにかく謝罪の言葉を連呼し、母の機嫌を取る事だけに専念した。


輝く空気の橋、微笑む太陽、それを照り返す屋根。焦がされる凡太の両の目は、いつしか瞼の裏に逃げ場を求めた。




『着いたよ。』


どうやら眠ってしまったらしい。夢は継続していた。


ぶるぶると小刻みに震えていた軽トラックは、母が鍵を取り去ると同時に魂を抜き取られたようにぴたりと沈黙した。


凡太は欠伸を噛み殺し、ドアを開けて外に出た。やはりこの家が一番落ち着く……はずだったのだが。


夢の中に存在する愛してやまない自宅は、昨日までは奇妙ながらもすっかり見慣れた風景となっているくねくねとした根を持つ木々に見守られていた。


ところが今は見る影も無い。代わりにヤシやユッカに似た植物が我が物顔で家の周りを陣取っていた。


大地は砂で満たされており、ヤドカリが時折顔を覗かせている。水平線は島影の邪魔一つ無く、一筆で空と青い絨毯を隔てていた。これはどう見ても海だ。


(…何だこれ。)


現実の影響により、触発された脳が自宅を作り変えてしまったのだろうか。南国を彷彿とさせるものなど最近見ていないのだが。


『新しいお家よ、どう?』


母はとても嬉しそうに言い放った。いかにも本人の意思で変化させたとも取れる言い方に凡太は戸惑う。


「ど、どう?ってこれ、母さんが何かしたの?」


『そう、模様替えしたのよ。やっぱり南国って良いわねえ。』


元凶は母だった。方法は分からない。そして模様替えどころの範囲では無い。


『凡太の部屋はあそこ。凄いでしょ、一戸建てよ。』


母の指差す方向には常夏の海辺に佇む小さな一軒家がある。そこが凡太の新しい住まいになるようだ。


凡太は砂浜に作られた石畳を見て『夢とは言えよくもまあこんな所に作ったもんだな。』とぼやき、変貌を遂げた自宅へと焼けた石の上を歩いた。




家の前まで来た凡太は深呼吸をした。ゆっくりとスライド式の扉に手を掛け、中へと踏み入る。


部屋の内部からは幼い子供が住んでいるのだろう。と言う印象を受けた。


(でもこれが俺の家なんだよなあ。)

部屋は玩具が散乱しており、足の踏み場も無かった。


手押し式のポンプで跳ねる蛙、全く同一の物が三、四つ並べられた昆虫の食玩、破損した右腕を接着剤で固定された戦隊物のヒーローの人形は、彼の受けた愛と疲労を物語っている。


玩具を掻き分けているとベッドを発掘し、ひとまずそこに腰を下ろした。


お世辞にも居心地が良いとは言えない。次にここへ来た時に馴染みの家が修復されていればいいのだが。


凡太は壁に貼り付けられている学習塾のキャラクターが所狭しと描かれたカレンダーを眺めながら、眉間に皺を寄せていた。


そんな凡太を振り向かせたのは、がたがたと何かが這い出て来るような物音だった。


視線をやると同時に、玩具の山からは小柄な物体が飛び出して来た。


騒音を響かせ姿を現したのは猿の人形だった。


(ちょっと気持ち悪いな。)


人形は不気味な程精巧に作られており、本物の猿と変わらない顔立ちをしていた。だが頭には道化師のような帽子を被り、両手には小さなシンバルを有している。それが実に不釣り合いだった。


猿は凡太と数秒間見つめ合った後、両手をゆっくりと広げたかと思うと、今度は素早く戻してシンバルを叩く。それを何度も繰り返した。


突然の事に驚いたが、けたたましい音に我慢出来ず、どうにか止めさせようと手を伸ばす。


猿はその手をひらりと躱し、開け放してあった窓の枠に飛び移った。


そして一度大きくシンバルを鳴らした後で外へと逃げて行ってしまった。


いなくなってくれたのは有難いが、猿も外見から推察するに玩具の一つだろう。ならば再び戻って来る可能性がある。


(躾けが必要だな。)

説得出来るものか定かでは無いが、あれを毎回聞かされるのは堪らない。〝目が覚めて〟しまいそうだ。


追いかける為、凡太は重い腰を上げる。するとそこで少なからずの尿意を感じた。


捜索の前にトイレに行っておくべきだろう。夢での排泄は少々危険だが、この歳になってそんな失敗は今の所起きていない。


ベッド脇にあったもう一つの扉を開けると、丁度良くそこが厠だった。部屋は六畳程で、その隅に和式の便器が設置されている。


しかし、何とこの部屋にも玩具がひしめき合っていた。凡太はこの時、猿をどうにかした後で自宅の大掃除を決意した。


邪魔な玩具を退かし、便器の前に立った凡太は底の景色が目に入った。


目が離せなくなった。便器の下が海と繋がっているのだ。海中は薄暗く、生物の気配に満ち溢れている。


気が遠くなりそうだった。何か這い上がって来たら、と想像すると出るものも出なくなってしまう。


『…ねえ、いないの?』


その時、突如として自室から響いた声に驚き、バランスを崩した凡太は底に広がる海中へと転落した。

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