鯨の成れの果て 3
カン、カン、カン。
一定の間隔で足音の反響は単調に響く。既に引き返すのが躊躇われる程下降してしまっていた。
それにしても長い梯子だ。どれだけ降りて来たのかも思い出せない。
しかし、遂に変化が訪れた。
薄闇だった空間に、僅かながら光が舞い込んで来たのだ。
それは更に明るさを増し、今や全身がはっきりと見える。終着点が近いのだろうか。
そう思い、下を見た凡太の目にはぎらぎらと燃え盛る炎が映った。漸く姿を現した最下層には、実に奇妙な部屋が存在していた。
壁は四方全て硝子張りで、床下に広がる大海原を一望に収める事が出来た。当然ながら薄暗いのが残念だが。
四隅に置かれた黄金の燭台は大きく、凡太の腰の高さ程もある。その上には風も無いのに艶かしく揺れる炎。いつから燃え続けているのだろう。
床には鮮血のように赤く、部屋を神々しく彩る美しい絨毯が敷かれている。縁の装飾は金色で燭台に負けぬ輝きを放っていた。
そんな用途の分からない、まさに宝の持ち腐れのような部屋の中央には、何と洋式の便器が配置されていた。予想外にも最下層はトイレだったのだ。
凡太は気持ちが先走り、何度も足を踏み外しそうになりながらも床に降り立った。地面に足をつけるのが随分と久しく感じる。
もつれる足を無理矢理に動かし、勢いよく便座に座り込む。そして思う存分、溜まった水分を排出した。
ベルトを正した時には、全景を覆い尽くす母なる海に視線を巡らせる余裕が出来ていた。
相変わらずの明瞭では無い海中ではあるが、こんな光景は現実で淡々と生きているだけでは拝む事は難しいだろう。
感動などは超えてしまい。凡太は棒立ちのまま、ただひたすらに目の前の神秘的な領域を見つめていた。
すると、突如として部屋の底の海中から伸び上がる大きな影が正面の海を黒く染めた。
凡太は動けない、と言うよりも動かなかった。この危機的状況に直面しても尚、行動に移さない冷静で無知な自分がそこにはいた。
この部屋の造形に厳かな雰囲気を感じ取り、何の根拠も無く、絶対的な安全圏に衛られているような感覚を抱き、警戒の一つもしなかったのだ。
影は太い胴体を露わにし、最後にくの字形の尾鰭を硝子に映し出したかと思えば部屋の周囲を旋回し始めた。
ゆっくりと右に動く魚影に視線を合わせる。これは恐らく自室の下の海で凡太を餌と認識し、襲ってきたあの魚なのだろう。
こちらを覗く眼球はピンポン球程度の大きさで全身と比べかなり小さいが、唯一漆黒に染まっていない部位であり、むしろ見た者を圧倒するような存在感を放っていた。
少し前に、あれに似た目を見た覚えがある。夕暮れの街で蠢く闇、その中に散りばめられた無数に光る二対の眼光。
海底に砂が堆積していくように、あの時の記憶が徐々に蘇り、胸には不安の欠片が積もってゆく。
それを知ってか知らずか魚は旋回するのをやめ、部屋の中の凡太に顔を向けた。
そして一瞬、口元だけで笑った気がした。そのまま段々と大きくなる。
(違う、近付いてるんだ。)
そう気付いた時、既に黒い死神は微笑みでは無く、こちらに牙を向けていたのだった。
二度目の命の危機を今更ながらに悟った凡太は、鈍重な足運びで梯子へ近付く事しか出来無かった。
魚は硝子に鼻先を押し付け、尾鰭を激しく動かす。まさか突き破るつもりだろうか。
鼻先の凹んだその顔は何とも間が抜けているが、罅が入りぴしぴしと叫ぶ硝子の悲鳴と、牙の擦れる雑音が不快な二重奏を奏でている室内ではとても笑える状況では無い。
漸く手摺を掴み、登り出した凡太は自分自身に苛立ちを募らせていた。窮地に立たされるとただ怯える事しか出来ない自分に腹が立つ。
そんな余計な感情が仇となり、手にばかり力が入る。未だに動作は軽快とは程遠かった。
だが徐々に上へと進むにつれ精神的に余裕が湧いてきた。奴は諦めただろうかと、身を捻って確認した。
……その余裕は余りにも早く消え去る事となった。とうとう硝子を破り、砲撃の如く部屋に突っ込んだ巨大な弾丸を目撃した所為だ。
魚は便器を薙ぎ倒し、這いずりながらこちらへと前進して来る。雪崩れ込んだ水は瞬く間にかさを増し、燭台の炎を喰らい尽くした。
それにより光を失った両目は黒く塗り潰された。だが、その中でも一際濃い黒影が獲物に狙いを定めているのだけは、暗闇の真っ只中にあってもはっきりと分かる。
やはり土壇場にならなければ身体は言う事を聞かないのだろうか。脅威が近付く中、全身から余分な力が抜け、幾分かは身軽になった凡太はひたすらに梯子を登る事だけに専念した。
無事に辿り着けるだろうか。不安になるが今は上を目指すしかない。真下の流水がぶつかり合う音は亡者の悲鳴のように泣き叫んでいた。
恐ろしい勢いで海水は部屋を満たしてゆく。少しでも減速すれば立ち所に呑まれてしまいそうだ。
足先でも水に濡らしてしまえば滑って滑落し、奴の餌となるだろう。
凡太はより一層速く両手足を動かした。幸い迫り来る水位の上昇も激しいとは言え、速度は一定だった。
その時、下から突然地響きかと思う程の唸り声が響いた。嫌な予感がし、一寸下へと目を向けた。
予感は的中した。暗く濁った海中からは黒い塊が一気に浮上して来る。
(俺を仕留める気か。)
なかなか食事に有り付けないでいたのに痺れを切らしたのか、獲物目掛けて巨体が勢い良く跳ね上がり、空を飛んだ。
凡太は咄嗟に渾身の力で懸垂して身体を押し上げた。それと同時に物凄い衝撃が起こり、危うく手を離しそうになった。
攻撃は凡太の足があった場所にまで及んだ。もたもたしてはいられない。
魚は身を翻して水中へと落下してゆき、まるで船舶を空中から叩き落としたと言われても不思議ではない程大きな水柱が上がった。飛沫もまた凄まじく、雨のように降り注いだ。
『いたっ。』
身体を元の位置に戻した時、脛に強い痛みを感じた。
見れば梯子には歯で削り取られた跡がある。抉れた箇所で怪我をしたのだ。
凡太がその痛みに顔を歪めていると、首筋に一滴の雫が落ちた。それに釣られて頭上を見上げれば、開け放たれた扉から漏れる光はもう、すぐの所にあった。
下にばかり気を取られていたが、かなり登り進んでいたらしい。ただ、扉は確か閉めた覚えがあるのだが。
とにかく動き始める。魚の降らせた雨によって梯子はぬめりのある海水に覆われ、なかなか思い通りには進まない。
先程懸垂した所為で腕も痺れてきた。やっと希望の光が差し込んだと言うのに、凡太の体力は残り少なかった。
あちらにもかなりの反動があったのは間違い無いはずだが、魚は何事も無かったかのようにその身を反転させ、二度目の攻撃を繰り出そうとしている。
(これは、逃れられない運命なのかもしれないな……)
ここで死ぬのか、今日の夢は悪夢だったのか。
ならば命が尽きるまで足掻いてやろう。
絶望的な状況に、精神は抵抗の二文字を命令していた。
魚が動き始めた。
(出来るだけ引き寄せるんだ……)
浮かび上がる水面の影は瞬く間に広がり、魚は狂気の笑みを作るように大きな口を開け、再度飛び跳ねた。
それに合わせて凡太は余力を振り絞り、梯子を蹴った。
体は宙に投げ出される。滑りが生じ、予想よりも飛びはしなかった。
足元には平たく大きな鼻先が近付く、衝撃に備えて身構え、標的の頭上に両足から着地した。
表面はぶよぶよとした外皮で覆われていた。衝撃を逃せず、足元がふらついて転落しそうになるのを何とか堪えた。
魚は痛みでも感じたのか、耳障りな叫び声を上げ、忌々しそうに鼻先を左右に激しく揺さぶる。
(こいつを踏み台にして、扉へ辿り着く。)
一か八かの賭けだ。
凡太はいつに無く勇敢であったが、それを邪魔する不快感に悩まされていた。外皮が不自然に低反発で、接している箇所にへばりついてくるのだ。
そんな事を言っている場合では無いが、これ程沈み込む皮膚を蹴り、飛べるだろうかと今更弱気になってしまう。
真っ黒な飛行船は上昇を続けている。もうじき放物線を描き、壁に打ち付けられるのだろう。運命は最早変えられはしない。
(今だ!)
両手を離し、折り曲げた足に力を込めた。
だが同時に魚は最後の抵抗を見せ、再び激しく鼻先を振るった。
凡太が扉へと舞い上がる事は無かった。揺れにより姿勢が崩れ、ただ前のめりの状態に戻ってしまっただけだった。
(嘘だろ、こんな化物と心中させられるのか。)
最初で最後の好機を逃してしまったのだ。
頭に血が上った。拳を思い切り足元の忌々しい肉塊に何度も何度も叩きつけた。
やがて右手は粘り気のある液体に塗れた。魚が鼻から汁を撒き散らし、白く濁った眼球からは涙を流していたからだ。
この生物が何を思い、苦悶しているのかなど知る由も無いが、その顔はまるで人間のようだった。
こいつにも感情があるのか、そう思うと今まで執拗に狙って来た事実が、更に怒りに拍車を掛ける。
怒気は殺意へと変わり、凡太は再び拳を振り上げた。
だが脳天目掛けて放った一撃は空振り、代わりに自らの脳が揺れた。
気付けば身体が上空高く舞い上がっていた。魚が壁に衝突したのだ。
下では魚が悲痛な叫び声を響かせていた。投げ出された凡太は上昇するがままに身を任せ、声の主をじっと眺めていた。
その鼻先はぐしゃりと潰れ、二つの目玉が飛び出すのが見える。単体で見れば目玉は大粒の真珠さながらの輝きを放つ美しい代物であった。
(ざまあみろ。)
凡太はにやりと笑っていた。そして冷酷な笑みは、すぐさま歪んだ表情に移り変わる。
梯子の手摺に叩き付けられたと気付いたのは、勢い余って回転しながら廊下へと放り出された後だった。
凡太を吐き出すと共に、もうこの部屋に用事は無いだろうとでも言いたげな様子で、扉は独りでに閉まった。
左腕を負傷した。見なくとも分かる。熱を帯び、焼け付くにも似た激しい痛みで指一本動かす事も不可能だったのだから。
『凡太、どうしたの。』
激痛で眩暈がしてきた。霞ゆく意識の中、首だけを動かし、凡太を呼ぶ人影に顔を向けた。
『梅…俺の家に…夢に…勝手に入って来るなよ…』
それだけ言うと、瞼を開けていられなくなった。怪我が致命傷になり死を迎えるのか、それとも覚醒の時が来たのだろうか。
いずれにしろ、この闇からは逃れる事は出来無かった。
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