鯨の成れの果て 4
仏頂面でむくりと起き上がる。あまり良い目覚めとは言えなかった。
寝ている間、凡太の頭を乗せていたのであろう左腕は痺れ、暫くは動かせない程だった。
当たり前だが腕、脛と共に外傷は無く、ついでに言えば布団も濡れていない。あの時の痛みは圧迫が原因なのだろう。
だが、もしも睡眠状態の肉体に異常が無ければ、あの演出は省かれてしまい、胃袋の中で終わりを迎えていたのだろうか。
しかし思い出すのも腹が立つ。あんな魚に飛び移らなければ良かったと、凡太は下唇を噛んだ。
(いいや、いつまでもそんな事を考えるのはやめて、日記を書かないと。)
寝起きのぼんやりとした頭は夢の世界での体験が現実と言う名の外気に晒され、溶け始めている最中なのだ。事細かく記憶しているうちに今日の出来事を書き記しておかなければならない。
そう言えば、夢日記を続けていると明晰夢を見れるようになると聞いた事がある。だが覚えている夢は殆ど毎回欠かさず書き留めている凡太でも経験は数える程しか無い。
何週間、もっと前だろうか。夢で突然、これは明晰夢であると確信したのが最後だったはずだ。
その時は天まで届きそうに長く、先の見えないエスカレーターをわざわざ降りて商店街の上空を滑空していた。
それ以前にも小学校から始まった夢で明晰夢になった時は、椅子に座ったまま田舎町の遥か上を物凄い速さで旋回した事もあった。
あのままエスカレーターに乗っていたら、校内を散策していればどうなっていただろう。まだ見ぬ景色や、予想も出来無い未来が待っていたかも知れないのに、なんだか損をしてしまった気分になる。
そう、凡太は明晰夢をあまり望んではいないのだ。一番の理由は何故だかいつも空を飛ぶ夢ばかりになってしまう傾向がある為だった。
他には何も恐れるものなど無い、と全てを卓越したような錯覚に陥ってしまう点が挙げられる。普段から夢中でさえ夢の事を考えている凡太の境界線は曖昧になっているので、明晰夢かどうかはこの二つの事柄によって判断するべきだと言えよう。
空を飛ぶ夢もそれはそれで愉快ではあるが、夢は夢のままで、快楽に沈み込んでゆくようにその世界に没頭していたかった。夢が空を飛べるだけの代物だったならば凡太はここまで執着してはいないだろう。
『おはよ、お前今日早起きだな。』
不意に日記を書き終えた凡太に声が掛かった。
(うるさいな…)
思わず口から溢れそうになった言葉を飲み込み、挨拶を返した。
凡太に話し掛けたその男は、部屋の片隅で本を読んでいる最中だった。梅原、それが彼の名前だ。
梅原とは幼馴染みで、彼も前回出会った高橋と将太のどちらとも面識がある。
凡太と梅原は二人共負けず嫌いな性格であり、顔を合わせれば喧嘩ばかりしているのだが、互いにやる事が無ければ連れ立って行動しているような間柄だった。要するに腐れ縁だ。
物心ついた時から既に遊び相手だった彼は、うだつの上がらない凡太と運命を共にするかのように良く似た境遇を辿っている。そんな二人は、今は同じ屋根の下で日々を過ごしているのだった。
生まれ故郷を離れ、何かを成し遂げようとは思っていたが、成し遂げる何かが見つからなかった。
そうこうしているうちに生活は苦しくなり、少しでも節約出来無いかと思い付いたのが共同生活だ。そしてその案に食いついた唯一の人物が梅原だったのだ。
……直ぐに後悔した。梅原には自活能力、社交性共に皆無だった。
仕事は何をやってもすぐに首を切られた。何事にも反発して、隙を見て酒をあおるアルバイトに何の処罰もしない雇い主がいれば見てみたいが。
家でも彼の本領は発揮された。部屋にゴミを放置するなど可愛いもので、一体何処から連れて来たのか、大きな黒猫に凡太は寝床を占領された時もある。
そんな傍迷惑な同居人がどうやって今まで生き延びられたかと疑問に思うかもしれないが、彼には親の仕送りがあるのだ。それによって今の所生活に問題は無さそうだった。
また、その中から家賃は支払われているので多少の事は我慢している。多少の事は。
しかし、物事には加減というものがあるのだ。最近では顔を見るのもうんざりする。
気軽に声を掛けたのが間違いだったのかもしれない。計画性の皆無な凡太が言えた事では無いのだが。
もう一つ、凡太には彼を嫌う理由があった。梅原が夢に出て来ると碌な事が無いのだ。無論、こればかりは現実の梅原に怒りをぶつけるのはお門違いと言うものだと、頭では一応理解しているつもりではある。
(一番酷かったのはあの時だな。)
喋り続けている梅原を無視して、日記の過去の記述を開いた。そうして紙に書き出した夢の記憶を、目で遡っている自分がいた。
二章 鯨の成れの果て 終わり
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