悪夢を呑んだ男 2

梅原の親指に抑えられた紙の厚さが倍となった頃、全ての棚の確認を終えた。


棚には全て似たようなプラスチックの容器しか置かれておらず、試しに取り出してはみたものの、触れた途端に木箱は朽ち果て、工具は錆ついてとても使えたものでは無かった。結局、収穫は小さな箱一つに留まった。


単独で配置されていたのはこの箱だけ。必ず意味があるはずだ。


そう考え込んでいた凡太を嗅ぎ慣れた臭いが包んだ。背後へ顔を向けると、梅原が煙草に火を付けた所だった。


火花を散らすライターの音が、埋もれていた記憶をみるみる掘り起こしてゆく。箱の突起物は、蝋燭だ。


すぐに梅原からライターを引ったくり、箱に炎を近付けると、予想通り火が灯った。


ただ、それから何も起こらない。


間違っていたのだろうか。それとも、外界からの物品で勝手に物事を進行させたのはまずかったのか。


『終わったら返してもらえる?後、それ見てると落ち着くね。』


梅原が呟いた。


凡太はライターを投げ返し、当ても無く部屋を歩き回った。箱の使い道が全く分からない。頭の回転の鈍い自分に段々と腹が立ってくる。


そうしているうちに、壁の押しボタンが目に留まった。梅原が押した電灯の電源だ。


半ば八つ当たり気味に本を読む梅原の邪魔をしようと、軽い気持ちでボタンを切の方向に押し込んだ。


『あっ。』


梅原は悪態の一つでもつくかと思いきや、何かを発見したような声を発した。


見れば中央の床が発光している。あの箱が光っているのだ。二人の目は釘付けになった。


箱の上でゆらゆらと揺れ動く光の帯は緑、紫、青と目まぐるしく姿と色を変化させる。


何度も何度もその身をくねらせる蛇にも似た光は赤色の輝きを纏い、奇妙な形を作った後、動きを止めた。あれは何だろう、星座に見えるが。


(北斗七星、いや。)


『蠍座だ。』


梅原が先に口に出していた。答えを導き出すのに一歩遅れた凡太は更に不機嫌となる。


梅原の言葉と同時に、光を放っていた蠍座の輝きは弱まり、消え去った。やはり正解のようだ。


今のは流石に理解出来る。光は四色に変化し赤色の蠍が形取られたのだ。つまりこの箱は蠍の紋章の部屋で効果を発揮すると思われる。


しかし、他の部屋への移動手段は未だ見つけられてはいない。棚の後ろ側に扉でも隠されているのだろうか……


凡太は即座に考えるのをやめた。


第六感が警笛を鳴らしているように感じる。思考している場合では無いと。それは、ある事に気付いた所為と見て間違いは無い。


何処からか声が聞こえるのだ。


子猫が発する鳴き声に似ている。少なくともこの部屋からでは無さそうだ。


今までと違う、怪異的な恐怖を覚えた。恐れよりも不安が強くなるような気味の悪い心境だった。


梅原はと言うと、素知らぬふりで読書を続けてはいたが、緊張を隠し切れていない。彼の耳にもはっきりと聞こえているのだろう。


やがて鳴き声は一定の間隔で絶え間無く聞こえるようになった。こちらへ近付いているのか。


それが梅原の真正面の棚の奥から発せられていると確信した時、考えたくは無かったが、既に声の主は人間の赤ん坊だと見当が付いていた。


いつも怯えるだけしか出来無い自分。 迫る脅威と恐怖心に打ち勝ちたい、似通った状況をどうにか打破したいと、感情だけが悪戯に昂ぶる。


だが胸の内とは裏腹に、いつしか後退りしていた。壁に背が吸い寄せられてしまうように。


踵が壁に当たった。情け無くも、まだ姿すら表していない何かに追い詰められている自分がいた。


……部屋の空気が変わった。遂におでましのようだ。


扉の開け放たれる音と共に正面の棚ががたがたと揺れる。奥には扉があったらしい。ならば侵入を許してしまったのは逃げ道が塞がれた事を意味する。


諦めきった凡太には絶望の表情が貼り付いていた。隣の梅原も顔を引き攣らせている。腰を抜かしたのか立ち上がる事も叶わずたじろいでいる様子だ。


そんな梅原を見ていると、彼が寄り掛かる壁の一部分だけが窪んでいるのに気が付いた。縦長の長方形に、あれはもしや。


『嘘だろ。』

思わず口から溢れた言葉と同時に、梅原に強烈な怒りを覚えた。こいつが進行を妨害していたも同然だ、灯台下暗しとはまさにこの事だ。


目の前の障害物が気にならないのか、赤子の声を発する何者かは棚を押したまま前進し、すぐ側まで迫っていた。


(まだ間に合う!)

凡太は開いてくれと願いながら、ドアノブが元々存在していたであろう円形の窪みに手を掛けて押し込んだ。


しかし何度やっても扉は少し奥へ引っ込むばかりで、それ以上は動かない。これは引き戸だ。


『梅原!そこをどいてくれ!後ろにある扉から逃げるんだ!』


強引に腕を引き、そう叫んだものの、梅原は目の前の脅威から逃れようと意味も無く足をばたつかせるばかりだった。


鼓膜が破れそうな程の声量となっていた鳴き声がぴたりと止んだかと思うと、棚の奥から伸びてきた腕が、二人の首をとんでもない怪力で締め上げた。


(だめだ…)

意識が薄れてゆく。


赤子の声を持つ者の腕が、濃い腕毛に覆われた成人している男性の物だった事だけは、今でも忘れられない。




……朝から見るべきでは無かったな。


日記を読み終えた凡太は、布団から出た。


時計の針は十時を指している。普段ならばバイト先は昼間も営業するので急いで支度をする所だが、今日は休みだ。いつもの事だが何も予定は無い。


凡太はペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やしておいた水道水を飲んだ。


今読んだ酷い内容の通りだ。梅原は何かと厄介事を引き起こす。夢の進行を妨げるのだけは勘弁してほしい。


その後は勿論死亡したので、例によって炬燵のある部屋へと飛ばされたのだった。その時は誰かが背後に座っていたような気配がしたのを覚えている。


『凡太、昨日新しい本を買ってきたんだ、終わったら読んでいいよ。』


梅原は読んでいた本から顔を上げ、再び話し掛けてきた。


『でもまたドストエフスキーだろ?俺には少し難しいな。』


『俺も頭悪いからなかなか進まないけど、結構面白いよ。』


そう言って梅原は笑った。


(〝俺も〟頭が悪い、か……余計なお世話だ。)


趣味の少ない二人が行えるまともな会話の一つが読書だ。凡太もこの時だけは梅原の余計な一言には目を瞑っている。


系統こそ違うが、気に入った本があれば自然と話題に持ち出され、互いに貸し借りもしていた。


他の同年代の友人にはあまり本を読む人間はいなかった。その点だけは梅原に好感を持っていると言えよう。彼は海外の作品を好み、凡太の読む本はSF小説が大半を占めている。


本は良いものだ。読むだけで見た事の無い場所へ連れて行ってくれる。移動せずに別の世界を旅行する方法は小説を読む、夢を見る、この二つだけだと思っている。テレビもそれに近いかもしれないが、四角い箱の中に映し出されるのはただの現実である。更に言えばそんな物は持っていない。


また、小説の内容での会話も楽しみの一つだった。語り手は文字を言葉に変え、自分の描き出した世界を垣間見せてくれる。自己の中で咀嚼された物語は、全く同一の書物を読もうと他人と同じものとなる事は無い。


『ところで、前に貸したカフカはどうだった?他のやつは……変身があるよ。』


梅原がそう言い、凡太は先日借りたカフカの城の感想を伝えようとしたが、人参のヘタが床に放置されているのを見つけ、言葉を飲み込んだ。彼が料理でもしていたのだろう。


最早怒る気にもなれず、話す気も失せてしまった。凡太は曖昧な表情を作り、それを返事として部屋から抜け出た。


階段を降り、玄関の脇にあるポストを開けた。そこには税金関係らしき封筒が入っていたので、中身も確認せずに破り捨てた。


(後は何をしようか、暇だな。)

二度寝したい所だが起きたばかりなのでそうもいかない。


それに、先程の日記を読んだ影響を色濃く受けている今、眠ってしまえば梅原との遭遇は確実だろう。


夢は良質でなければならない。すぐにでも他の記述を読み、悪夢を見る確率を減らすのが得策だ。


(今日は時間の限り読むぞ。)


丁度良い暇潰しにもなる。凡太は部屋に戻り、再び夢の世界へと飛び込んだ。





三章 悪夢を呑んだ男 終わり

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