四章 追憶

最初の日付けは◯八年、十一月十七日だ。


それは凡太が初めて夢を日記として書き残した日だ。

母の運転する軽トラックから全ては始まった。




道路のコンクリートは罅割れ、木々が寝癖のように方々に葉を広げている。そんな道が続いていた。


『一人で大丈夫?』


『いくつだと思ってるんだよ。それにそこまで離れている訳じゃないし、たまには帰るよ。』


実家暮らしだった凡太は、母がいつの間にか購入していたと言う家に単身で引っ越す事にしたのだ。まだ新居は見た事も無いが、念願の一人暮らしを想像すると楽しみで仕方が無い。


実家から新しい家までは車で三十分程度で着くらしい。軽トラックも引っ越しが済めば置いていってくれる約束だった。とは言え、凡太の荷物以外は荷台に乗せられていない。母はどうやって帰るのだろうか。


そう考えていた時、軽トラックが減速を始めた。


『もう着くの?』


『そうよ。この森を抜ける時は木の根っこに気を付けなさいね。』


そして現れたのは、家全体が蔦で覆われている小さな古民家だった。


あの状態では既に廃墟と化しているのだろう。凡太が他人事のように眺めていると、よりにもよってその家の前で車は動きを止めた。


母が悪い冗談を言っているとしか思えなかった。見た目があまりにも酷いのだ。だが、わざわざ購入したからには理由があるのだろうか。


恐る恐る裏へと回ってみた。陽の当たらない箇所の木材は腐り、中は朽ち果てていて薄暗かった。駄目だ、とても人の住める場所では無い。


『……何でこんな家買ったの?』

呆れて凡太は言った。


『自分で修理していけばいいじゃない。もう泣き事言ってるの?』


『冗談だろ、修理って言っても家全体になりそうなんだけど。これはもう手遅れだろ。』


『あら、情け無いわねえ。』


押し問答しているうち、何処からかやって来たタクシーに母は乗り込んでしまった。


『まあ元気でやりなさいね。どうしても無理だったらいつでも帰って来なさい。』


母を乗せたタクシーは森に吸い込まれ、瞬く間に姿を消した。


取り残された凡太は三和土に腰を下ろし、顔を強張らせながら周囲を見回した。


この家は三和土の正面に汚れた台所と四畳半の畳の空間。それしか無い。


(こんな家でどうやって生活しろって言うんだ。)


小さ過ぎる古民家は何もかもが薄汚れている。靴を脱いで入る気は更々無かった。仕方無くここに座っているのだ。


溜め息をついた凡太は実家に帰る為に立ち上がった。早々に戻って来て家族には笑われるだろうが、構ってはいられない。


軽トラックの運転席に入り鍵を回した。


車体は甲高い悲鳴のような音を立てる。既に走行出来るのが奇跡ではないだろうか。母が運転する時はこのような音は全くしないと言うのに。


とにかくギアをドライブに入れると、車は意外にも軽快に動き出した。


凡太はそのまま、母の後を追い帰路に就いた。滞在時間は三十分にも満たなかっただろう。


因みに、この家は海岸沿いへと続く分かれ道の手前に存在している。今では見慣れた風景の中で死んだように佇む古民家は、元々凡太が住む予定だったのだ。


今にして思えば、修理すればいい、と言う言葉はぞんざいな態度では無く、夢の創造主たる凡太の力でこの家を作り変えろと示唆していたのかもしれない。母がかなりこの世界に精通している事は、最早周知の事実のようなものなのだから。


そして帰宅時に見かけた森の中の大きな洋館を気に入った凡太は、そこへ再度引っ越したのだった。


住み始めると洋館はゆっくりとだが確実に、凡太の望む姿へと変わっていった。


屋内は故郷で母と暮らしていた家の内部に近付き、欲している物が時々、家の中に置かれるようになった。


そうして一人暮らしにもすっかり慣れた頃、様子を見に家を訪れた母もその洋館の大きさと落ち着いた佇まいを一目で気に入り、こちらへと移り住んだのだった。


日記はここで終了しているのだが、書き記していない事柄が一つだけある。思い出したくも無い出来事だからだ。


実は帰宅する際、運転中目の前に男性が飛び出して来たのを避け切れず、轢いてしまったのだ。


何だか自分に似ている気がするその男はフロントガラスに少しの間へばりつき、その後紙切れのようにひらひらと後方へ流されていった。


文字にしてみると滑稽ではあるが、あの時人を轢いたと言う事実に焦っていた凡太は、車を止めもせずに走り去ってしまった。


現実で覚醒を遂げた時は、ほっと胸を撫で下ろしたものだ。

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