六章 不器用な慈愛
湧き出る汗が全身を伝う中、凡太は住宅街の中にある道をふらふらと前進していた。
そこまで長時間歩いた訳では無いのだが、既に空の番は月から太陽に交代し、草木の纏う朝露を蒸発させながら大地を焦がしている。
梅原の存在を思い出し、胸ポケットを探った。写真は汗の影響を受けていないようでひとまず安心した。
写真の中の梅原も暑くて堪らないらしく、上着を脱ぎ捨て床に寝転がっている。写真が破れたり、ずぶ濡れになった場合、中の住人の命に関わるのだろうか。
『暑い…』
陽光を受け部屋の温度が上昇したのか、呻きながら梅原は目を覚ました。
『梅原って何か食べてるの?』
凡太は何と無しに尋ねる。
『食べてない、何も無いもん。でも、腹は減らないんだよな。』
梅原は寝言のようにぽつぽつとそう呟いた後、胡座をかいて凡太に顔を向けた。
その直後に、寝ぼけ眼が大きく見開かれるのを見た。
『凡太、後ろ。』
梅原の声で視線は背後に移る。そこには今まで歩き続けていて初めて出会う、通行人の姿があった。
その男は不潔な髭を顔中に蓄えていた。背丈は一般的と呼べるそれよりもやや高く、半袖のポロシャツと膝丈のジーンズから突き出た両手足には様々な刺青がびっしりと彫り込まれていた。
朝方の静かな住宅街にそぐわない髭面の男は、にやにやと笑みを浮かべたまま、こちらへと近付いて来る。
これは、確かに危険な状況ではあるのだろう。しかし数多の怪物との遭遇を越えてきた凡太には耐性がつき始めたらしく、これくらいでは恐怖心は全く感じなかった。
髭面の男は間合いに入ると、右手を振り上げた。
それが凡太に到達するよりもほんの少し早く、相手の顔面を思い切り殴りつける。そして男が尻餅をついた姿を合図に一目散に逃げ出した。
だがここは一本道。追い着かれるのは時間の問題だろう。
何処かに身を隠せる場所は無いかと探していると、煉瓦造の垣根が現れ、その奥にある大きな建物の姿が目に映った。
幸い奴とはまだ距離がある。あそこへ逃げ込むと決め、垣根をよじ登った。
その後すぐに下を確認し、飛び降りようとしていると笑い声が聞こえた。
何故ここで笑うのだろう。凡太は誘われるように動きを止めて振り返ってしまった。
声の主は勿論、髭面の男だった。
彼は再び笑い出したかと思うと、脛にある渦巻き模様の刺青をゆっくりと摩り始める。
すると足元の地面に刺青そっくりの模様が浮かび上がり、一瞬にしてその姿は地に吸い込まれていった。
呆気にとられる凡太の頭上から、潮の引いてゆくような音がした。
中空には先程の渦巻きが出現している。程なくして刺青だらけの足がそこから現れ、髭面の男が飛び出してきた。
一気に距離を縮められてしまった。建物に逃げ込む隙も無い。この状況を打開する方法は、戦う事だけであろう。
目の前に降り立った男の元へと中空の渦巻きが戻ってゆく。刺青全てに能力が備わっているとすれば油断ならない相手だ。
凡太は身構えた。そして拳を硬く握り、呼吸を整えたまさにその時、渦巻きのあった場所よりも遥か上空、そこから髭面の男目掛けて何かが落下して来るのが見えた。
『凡太君、俺の事覚えてー』
口を開きかけた男は上空の物体を察知し、舌打ちと共に再び渦巻きの中に沈んでいった。
直後、垣根の一部は砕け散り、凄まじい衝撃が起こる。破片を避けようと身を捻った凡太は、建物の敷地内へと転落してしまった。
痛みは全く無かった。驚きつつも上を見上げると、そこには以前、写真へと取り込まれそうになった凡太を救ってくれた大猿がこちらを見下ろしていた。
『私はお母様に作られましたが、一応、貴方の所有物ですから。』それだけ言うと、胸の高さまで両腕を上げた姿勢をとった大猿はみるみるうちに縮んでゆく。
やがて体高はサッカーのボール程にも満たなくなり、掌の中心にある小銭のような物が対照的に大きさを増していった。
その姿には見覚えがある。凡太の家が母によって玩具箱に作り変えられた時、部屋の中にいた猿の人形だ。
人形はあの時よりも小さくなり、垣根の上から凡太に向かって転がり落ちてきた。頭にはキーホルダー型の金具が付いている。
(便利な体だな。)
凡太は人形をカメラのストラップに留めた。
今の言動から察するに、同行してくれるのだろう。現に括り付けられた大猿は、文句一つ言わずに大人しくしている。彼が味方につくのは実に心強い。
こうして危機が去ったのは良いものの、先程の衝撃で垣根には罅が入り、崩壊の危険がある事が目に見えて分かった。
凡太は仕方無く、出口を求め敷地内の探索を始めた。
建物は想像していたよりも大きい。これは小学校だろうか。不審者として連行される前に脱出してしまいたい。
凡太が転落したのは学校の裏手側らしく、壁を背面とした右側は雑草が生え、錆びの浮いた金網を挟んで民家が建ち並んでいる。道路側だけを瀟洒な煉瓦で覆い隠しているこの有様が、関係者達が上っ面だけを気にしているのだと教えてくれた。
左手には校庭が見える。覗いてみると、そこには沢山の人々が蠢いていた。よりにもよって今日は体育祭か何かの行事が行われているらしい。
『まいったな。』
あの錆だらけの金網をよじ登るしか無さそうだ。
『いえ、貴方は校庭へと向かわなければならないでしょう。』大猿のものだと思われる低い声が、踵を返そうとしていた凡太を引き止めた。彼は人形の姿のまま人語を話せるようだ。
『どうして?』
『あれを。』
いつの間にか、校庭で走り回っている人々の中に、巨大なものが紛れ込んでいた。
全身が青く胴体の無い、二本足の大きな鳥の頭を持つ生物が人を追いかけ回している。
その他にも、あらゆる悍ましい妄想を具現化したような異形の者達が、容赦無くただ逃げ惑う事しか出来無い人間達を食い散らかしていた。それはまさに地獄の光景だった。
校舎の壁に身を寄せてその様子を伺っていた凡太だったが、次の瞬間弾かれたように走り出した。
『おい!さっきからいきなり落ちたり走ったり何なんだよ!いい加減にしてくれ!』
梅原の抗議の声は凡太の耳には届かなかった。
人々と怪物の演ずる惨劇の中心に、鳥頭に睨まれ呆然と立ち尽くす小鳥遊の姿をその目は捉えていたのだから。
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