試練 4

目を覚ますと畳の匂いがした。


年季の入った毛布が時間の流れを塞き止めている。それに抗うように鳩が鳴いていたが、鳴き声は唐突に途切れた。


ここは、夢で死んだ時に来るいつもの部屋だ。


(おかしいな、覚醒だと思ったんだけど。)


『凡太。』

その時、聞き慣れた声が背後から聞こえた。


声は出せないので返事は返せず、身体もうつ伏せから動かせないでいた。


『凡太、一つだけお願いがあるの。夢の世界はそれはそれは楽しいと思うわ、貴方を見ていれば分かる。けれどね。』


これは、母の声だ。


『夢の世界に生きないで。現実を蔑ろにしないで。貴方の世界はここだけでは無いわ、いいえ、ここにいてはいけないの。』


(現実の世界なんて存在した所で凡庸に始まり凡庸に終わる。こっちに来られないなら死んだ方がましだ。)これが持論だ。


しかし、いくら夢の中であろうと苦痛に耐え凡太を産み落とした人間にそんな言葉を叩きつけるのは気が引ける。


無論言うつもりは無い。どうせ口は開かないのだから。


凡太は破る事の出来無い沈黙を続けた。


『今日は貴方の夢の終わりの始まり。何があっても物語は続く、嫌な事も沢山あるわ。それでも夢を求めると言うのなら、私が終わらせる。』


(母さんは昔、俺にやりたい事をやりなさいと言ったじゃないか。やりたい事ならある、夢は俺にとってただの幻じゃない……この世界だけが心の支えなんだ。)


母はこの時を待っていたのだろうか。目を見ていなくともその覚悟が伝わってくる。


『貴方がここに来るのも最後よ。』


(これから、何が起こるんだろう。)


何処か懐かしく、穏やかな室内を映し出していた瞳に瞼がずり落ちてくる。突然眠くなったのは母の仕業だろうか。


(……この部屋に来るのも最後、か。)


実を言えば、ここへ来る度に何かの気配を感じていた。


この部屋には、母がいたのだ。ずっと前から。


自分の脳は何故、こんな夢を見せるのだろうか?




夢はうつ伏せだったが現実では仰向けで寝ていた。


一瞬訳が分からなくなったが、一呼吸置いて飛び起き、すぐに今までの出来事を日記に書き込んだ。


時計は四時半を指し示している。もう少しで夜明けだ。今日は夕方から仕事がある。


それにしても頭痛が酷い。頭がかち割れそうだ。


最近は熟睡と呼べる睡眠は極端に少なくなった。

今週など夢を見ていない夜は無い。凡太の身体は、そろそろ限界なのかもしれない。


だが夢に入り浸る事をやめる気など微塵も無かった。それが頭痛の原因なのは凡太が一番良く分かっているのだ。


ただ、夢の為なら死すらも厭わない凡太だからこそ、母の言葉は胸に刺さった。


(……母さんに諭されるなんていつ振りだろう。最近連絡もしてないな。)


今朝方まで見ていた夢に触発され、今の生活をひた隠しにしてきた日々を思うと、胸中で虚しさと寂しさが交錯する。凡太はこれ以上考えるのをやめた。


それよりもだ。母の言葉が本当なら、これからの夢は続き物のはずだ。


何やら恐ろしい予感もするが、早く先が見てみたい。先程の感傷を打ち消したいが為に、凡太は込み上げてきた好奇心を強引に掬い上げた。


しかし、過剰に睡眠を貪った肉体は眠りを拒否している。夕方までたっぷりと時間はあると言うのに、何か良い方法は無いのだろうか。


思考を巡らせ、過去の記憶を掘り返していると妙案が浮かんだ。この部屋には打って付けの物がある。


凡太は梅原を飛び越え、押入れの中に存在する彼の作り上げたゴミの山へと飛び込んだ。


『見つけた。』

その手に握られていたのは、睡眠薬の入った小瓶だ。


梅原が仕事を首になった回数を両手の指で数え切れなくなった頃、彼が睡眠薬を服用し始めた事を凡太は知っていた。


あの男にもストレスや不安を感じる機能があり、不眠にもなるのかと最初は心配していた。


だが、程無くして小瓶はがらくたの山に沈められ、それは杞憂として終わった。


それで良かったのだ。正しく使われる時をこの小瓶は待っていたのだ。


これでまた夢に戻る事が出来る。これからは睡眠薬を常備しておくべきかと真剣に考えながら、冷蔵庫の扉を開けた。


冷蔵庫には飲料は入っていない。と言うか電源すらも入っていなかった。


仕方が無いので台所の蛇口をひねる。すると流し台には濁流が注がれた。


錆びが流れ出ているのだ。そこまで放置してはいないはずなのだが。


首を傾げていると、蛇口は錆びを吐き出すのをやめ、水は無色透明へと戻った。


今の光景を見た後では気が進まなかったが、空のペットボトルに水道水をなみなみと注ぎ入れた。


そして、いざ夢の世界へ。


と言う正にその時、蓋を開ける際に手元が狂ってしまい、図らずも掌の上が夥しい量の錠剤で溢れ返った。


それを見ていると、多少の不安と謎の高揚が起こり、目を離す事が出来無くなってしまった。


遂にはそのまま全ての錠剤を口に放り込み、水と共に流し込んだ。


暫くはその場に立ち尽くしていた……


いや、直後に布団へ戻ったような……


床が肌に与えるひんやりとした感覚が心地良く、ついうとうととしていると、素っ頓狂な叫び声が後ろから聞こえた。


しかし、それは凡太の睡眠を妨げるには余りにも小さ過ぎた。




『遅いぞ、やっと帰って来たのか。』


渋い顔をした将太と、状況の飲み込めない凡太の視線が合わさる。


(なるほど、本当に前回の続きからだ。だとするとあいつはどうなったんだろう。)


『将太、あの男は何処に行ったんだ?』


『あいつは俺達が目を離した隙に逃げ出したじゃないか。』


そうでは無かったはずだ。男が黒煙に身を包み、怪物へと変身した所までは覚えている。


将太との記憶には若干の違いがあるようだ。あの男が何かしたのだろうか。


(まあ、将太はこう言ってるんだし、今説明しても混乱させるだけだな。)

凡太は現状を受け入れ、口をつぐんだ。


『さあ出発しよう。もたもたしてあいつの仲間でも来たら大変だ。』


将太は言う。


あの男が言っていた場所の名前は……


『えーと県概に、だよね?』


『当たり前だろ、さっき自分でも言ってたぞ。』

将太は呆れた顔をした。


こちらは時差ぼけに近い状態なのでどうにか勘弁してもらいたいが、何と言えば良いものか。

凡太は仕方無く苦笑で返した。


『おいおい、頼むよ凡太。』


胸ポケットから声がする。取り出してみれば中には一枚の写真、梅原だ。


写真の管理は凡太に一任されたらしい。これから常に行動を共にするかと思うと、早くも疲れを感じた。


そして身体にはカメラがストラップに繋がれ、片襷で掛けられている事に今更ながら気が付いた。誰が用意したのかも分からないが、両手が自由になるのは有難い。


『それと、凡太が戻って来たら言おうと思ってたんだけどさ、俺は別行動で県概へ向かう事にするよ。』


将太は言う。一体何のつもりだろう。意図が分からない。


『どうしたんだ突然、梅原は俺が持ってるんだし、第一何の連絡手段も無いじゃないか。』


『そうだけど、いつ追っ手が来るか分からない。二手に別れた方が良いよ。』


(そうか。将太は三人が狙われていると勘違いしているのか。狙われているのは二人ではなく俺だ。俺の所為で梅原は一枚の写真になった。)


将太をこれ以上危険な目に遭わせるのは心苦しい。後は自分で片をつけると決心した。


『それもそうだな。そしたら、俺達は行くよ。』

凡太はそそくさとその場を離れる。


『将太、気を付けろよ。』


『凡太もね。』


将太の後姿はすぐに見えなくなった。


(……しまった!)

将太を見送った凡太は突如、唖然としてその場に立ち尽くした。


忘れていた。目的地までの道筋を将太に聞いていなかった、これではどちらに向かえばいいのか分からない。


凡太は梅原の写真を取り出し、目線と同じ高さまで持ち上げた。


『なあ梅原、お前は県概の場所知ってるか?』


『知らないけど、県概に着いたら前に凡太と泊まった宿屋で落ち合おう、って将太が言ってたよ。』

煙草をくわえた梅原は紫煙を吐き出しながらそう言った。


どうやら県概とはあの時行った街の名前だったらしい。勿論初耳だった。


しかも、前回の夢で男が車を停めた道路まで歩いてみれば、案内標識にしっかりと表記されているではないか。


何処か遠い異国のような雰囲気だったあの街が、現実的に無機質な文字で記されているのには違和感を覚える。だが、これで迷う事は無い。


胸ポケットに写真をしまい、眠る街に気を配る事も無く、靴音を響かせて凡太は歩き出した。




五章 試練 終わり

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