試練 3

殺意が場を凍り付かせた。三人はその冷気により足が動かなくなってしまうのを恐れるように、全速力で走り出した。


凡太と将太が先頭に並び、その後を梅原が付いてくる。


一瞬後ろを振り返ると、男はこちらに先程取り出した何かを向けた所だった。両手で抱えているそれは銃の類では無さそうではある。それどころか武器にも見えない。


しかし、男は逃げ出した獲物達を前にしながら慌てる様子も無い。このままでは危険だと、直感が警笛を鳴らしていた。


『左右に別れよう!飛び道具かもしれない!』

叫んだ凡太は左へ、将太は右に軌道を変えた。


その直後、背後からシャッター音と共に閃光が走った。


舌打ちが聞こえた。男は何かからひねり出された紙を眺め、苦々しく顔を歪めている。シャッター音と……写真、あれはカメラに違い無い。


(……梅原がいない!)

真後ろを確認する。将太の方にも目を向けるが彼は一人だった。


あのカメラには写した物を取り込む力があるとしか考えられない。咄嗟の判断が遅れ、正面に残っていた梅原は捕まってしまったのだろうか。とにかく、今は逃げなければ。


力の限り走った。しかし冷酷にも男はカメラを凡太に向け、次の標的に狙いを定めていた。


あれを喰らえばどうなってしまうのだろう。ビルの間に入り込めそうな細道が見えるが、間に合わない。


『凡太!』

将太の叫び声と共に、再び閃光が走り抜けた。同時に、右肩に何かのぶつかる柔らかい衝撃を感じた。


『ん?何だこりゃ。』

男の間の抜けた声が聞こえてきた。足は依然アスファルトを蹴り、前へと向かって前進している。外傷も見当たらない。


理由は分からないが捕まるのは回避出来たようだ。安堵したのも束の間、身を隠す為にビルの間へと滑り込んだ。


しかし曲がった途端、全身が壁に叩きつけられ尻餅を付いた。行く先は壁に阻まれていたのだ。


瞬く間に最悪の展開が脳裏をよぎる。だが背丈程の壁だ。乗り越えられない事は無い。


壁に飛び付き足をばたつかせると、勢いが強過ぎた所為で一回転して反対側に転落した。


両足が酷く痛んだが、声を押し殺して痛みに耐えた。逃げなければならないがまだ足は痺れている。ここは音を立てずにやり過ごすしかない。


『急にいなくなったらさ、まあ壁を乗り越えたんだろうな、って誰でも分かるよ。』


その声を聞き、見上げてみれば、男は壁から身を乗り出し、真下の凡太に向け不敵な笑みを浮かべていた。


『お陰で新しい発見があったよ。被写体が何かに覆われたりしてると駄目なんだね。今回は驚かし過ぎたから追うのが面倒だったけど、収穫があったから良しとするよ。』


『今回って、お前いつもこんな事やってるのかよ!そもそも俺達が何したって言うんだ!』


怒りで全身が激しく脈を打つ。絶望はとうに超え、ただ憤怒に身を任せるしかなかった。


『毎回では無いよ。俺と仲間にとって危険だと判断した時だけだ、特に君はね。君はこの世界を作ってくれたんだろうけどこれ以上干渉するべきじゃない。ここは俺達の世界でもあるんだ。』


男はこの世界の創造主は凡太だと断定している。夢の話を随分と喋ってしまった。早くから勘付いていたのだろう。


そして危険と判断した。彼にとっては変えられると困るものがあるのだろうか。


それよりも、無関係の二人を巻き込んでしまったのだ。しかも事の発端は自分が梅原を追い詰めた所為でもある。


あの時の梅原と同様に、凡太は首を垂らし、俯いた。


最早打つ手はない。ここで今日の夢は終わりなのだろう。一度くらい頭上から見下ろしているこの男に反撃の一つでもしてやりたかった。


(やるなら早くやってくれ。)

凡太は全身の力を抜いた。


『そういや、君が俺の車に乗ってる事知ったらあいつもう慌てふためいちゃって、殺しはするなってしつこかったよ、もしかして何処かでー』

頭上から聞こえていた男の声は突然そこで途絶えた。


見上げれば姿も消えている。壁の向こう側からの物音と呻き声で、男が何かしらの理由で転落した事を悟った。


同時にカメラが放物線を描き、凡太を飛び越え少し先の地面目掛けて落下してくるのが見えた。


咄嗟の事で反応が遅れてしまったが、痛めた両足に鞭打ち地面を蹴って手を伸ばすと、何とかカメラを掴む事が出来た。これで男を恐れる必要は無くなった。


将太が凡太を助ける為に男を引き摺り下ろしたのかもしれない。今度はカメラを傷付けぬよう注意しながら、壁に手を掛け足の力でよじ登った。


壁を這い上がった凡太の視界には、異様な光景が映り込んだ。


真下には男が転がっている。ぐったりとしている彼に覆い被さり、今にも立ち上がろうとしているのは大きな毛むくじゃらの生物だった。


その巨体の持ち主は意外にもすらりとした両手足を有していた。熊かと思ったが、どちらかと言えば猿に近い。


猿らしき生物はこちらに背を向けていて、視線の先には口をぽかんと開けたままの将太の姿があった。


(将太は援護する為にこちらへ向かって来てくれた。けどその前にあいつが男を引き摺り下ろした……)

こんな所だろうか。


訳が分からず、大猿と将太に視線を交互させているうち、将太と目が合った。


驚いてはいるが怯えていない。彼から見て大猿に敵意は認められないようだ。


暫く何も出来無いでいると、大猿は大きく飛び跳ねた。異常なまでの脚力で将太の頭上を優に超えた所に着地し、ゆっくりと歩き出した。


その姿は闇に紛れ、同化してゆくようにぼんやりと掠れて消えた。




男が意識を取り戻した。二人は仁王立ちで男を見下ろす。


凡太が両手に抱えているカメラは、男をすぐにでも写真に収められるようにしてある。


『立場が逆転しちゃったか。』

さほど悔しそうでも無い様子で男は呟く。


『梅原を何処にやったんだ?』

将太は言葉に憤りを含ませていた。


凡太は先程の一件で完全に梅原の事を忘れてしまっていた、だがここは将太に合わせ、その通りだとばかりに何度も頷いた。


『大丈夫、生きてるよ。ほら。』

男は胸ポケットに手を突っ込み、二枚の写真を取り出すとこちらへと投げて寄越した。


ここまで来るとある程度予測出来る。やはり梅原は写真の中で項垂れていた。


ただ、驚いたのは写真の風景だ。だだっ広い街は姿を消し、六畳程のフローリングの床と、貼り替えたばかりのように白い壁紙の貼られた部屋となっている。梅原はその部屋の隅で縮こまっていた。


もう一枚は先程と全く同じ部屋に、将太の着用していた薄手のパーカーが転がっていた。あの時放り投げたのはこれだったのだ。彼の機転が無ければ今頃ここには凡太がいたのだろう。


予想した通り、このカメラで撮影すると人や物は一枚の写真に封じ込められてしまうようだ。加えて男が言っていたように、被写体が他のもので隠されている場合はそれを身代わりにして写真に幽閉されるのを回避出来るらしい。


『生きてる、って言われても、これは……』

将太は言い淀んだ。


その時、将太の声に反応したのか、梅原の肩がぴくりと動いた。


『え……』

目を疑ってしまった。写真が動いている。


『ね、生きてるだろ?』

男は笑った。


『これ、どうやって戻すんだよ。』

凡太はカメラを構える。


『さあ、そのカメラ貰い物だから分かんないんだよね。ただ、夢を望み通りに変えられる奴じゃないと無理だとは思うけど。』


『……俺なら出来るのか?』


『君はまだ無理。明晰夢の時ですら空飛んでるだけだもん。』


確かに、凡太は明晰夢だと気付けても今の所浮遊しか行っていない。


しかし、自宅が今回修復されていたのは凡太の力であるのは間違い無いだろう。梅原を元に戻す事は本当に出来無いのだろうか。


『何て言うんだろうね。非現実的な……摩訶不思議な……とにかく、夢の中でしか起こらないような現象を直す、って言うのが君は不慣れだよね。もう少し練習が必要かな。』


母から方法をきちんと教わっておけば、梅原を写真から救い出すなど朝飯前であったかもしれない。


『どうにかしたいんだったら、県概に行く事だね。お友達を助けてくれるかは分からないけど、そのカメラを作ったあいつしか治す方法は知らないんじゃないかな、たぶん。』男はにやにやとしたままそう言った。


自分達の進むべき道を知り、将太は覚悟を決めたようだ。反対に凡太の顔は依然として強張っていた。


カメラを向けているにも関わらず、男はべらべらと喋り過ぎだ。凡太をその場所に誘導しようと企んでいるのではないだろうか?


『凡太、不安な気持ちは分かるけど方法は一つしか無いんだろ?頼むよ。』


手に持っていた写真に目をやる。声の主は部屋の隅で二人を見つめている梅原だった。


『しゃ、喋れるのか?』

将太の驚いた顔は今日だけで何度目だろう。


『俺も驚いたよ。試しに話し掛けてみたけど、俺の声は聞こえるみたいだな。』


梅原の声は本人が目の前にいる場合と同じく、はっきりと聞き取れた。


『……分かったよ。』

凡太は言う。腐れ縁とは言え、こんな状態の友人をそのままにしておく訳にはいかない。


『そいつの名前は……』

詳細を男から聞き出そうとした……


しかし、写真から顔を上げた凡太達の前には、どす黒い煙のようなものが渦巻いていた。


その中心でにやりと笑う男は、体が透けて半透明となっていた。そして黒煙に巻かれ、飲み込まれてゆく。


その後で煙の中から突き出されたのは、濃い腕毛の目立つ、巨大な人間の腕だった。


身の危険を感じ、走り出そうとした凡太は立ちくらみに襲われた。


ふらついて地面に倒れ込むと、強烈な睡魔がやって来た。


覚醒の時間だ。


『おいおいおい!この状況で逃げる気かよ!次は絶対に殺してやるからな!』


異形の怪物は怒鳴り散らしていた。


だが、それすらも子守唄のようだった。時折聞こえる赤ん坊の泣き声が少々耳障りではあるが。

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