十章 夢を喰らう鯨
外では梅原、玲子、小鳥遊が二人を待っていた。
梅原と玲子は泣き顔だった。凡太は危うくまた貰い泣きしてしまいそうになるのを堪える。
『元気でな。』
将太は凡太に言うと、彼等の元へと走り出した。
そして皆は凡太に手を振り、街の陽炎に揺られ、見えなくなった。
『それでは、参りましょうか。』
凡太が振り続けていた手を止めた時、横には佐井が立っていた。
『あんたも案内人の役目だったな。』
『貴方にあの時殺されていたらと思うとぞっとします。代役はいませんので。』
『鰐石はどうしたの?あいつも生きているんでしょ?』
『あの方は建造物損壊の容疑で連行されてしまいました。お気の毒です。』佐井がそう言って指差したのは、ゲームセンターの隣にある倒壊した木造アパートだった。
『そうなんだ、何か可哀想だな。』
『ええ……ですが正直な所、私にとっては口煩い上司でしたので、何とも言えませんね。』
『ところでさ、鰐石は何で俺を狙ってたのかな?佐曽利と話したから大体は分かるけど、あいつはそれよりずっと前から俺の夢に現れてたんだよね。』
『あの方には先見の明があり、貴方がいずれ強力な人物になるだろうと以前から予測していました。しかし他の幹部達がその事に気付けば、間違い無く夢の創造主である貴方の力を利用してこの世界を自由に改変しようとするはず。ですからその前に貴方を現実に送り返そうとしていたのです。それが出来無ければ〝貴方のお母様が〟街を今のように再構築するまで何処かに閉じ込めておくつもりだったのでしょう。』
『……俺は母さんの掌の上で踊らされていたんだな。』
『そうでもありません。現に貴方は我々に勝利した。こればかりは予想外でした……そうそう、貴方のお母様から伝言を預かっております。』
佐井の言葉に、凡太の心は激しく揺れた。
『母さんから!?』
『はい。〝貴方を許します、もう二度と人の道を逸れる事と、自分の命を軽んじる事はしないで、貴方を愛しています〟と。』
凡太はその場に泣き崩れた。佐井に見られている事など気にもならなかった。
佐井は凡太の肩に手を添えようとしたが、すぐに引っ込めた。
『気の利いた言葉も無く、申し訳ありません。ですが私は貴方の悪夢として誕生した身、私には慰めの言葉を使う資格は無いのです。』
『いいよ……そんな事は。でもあの夢はもうやめてくれよ、寝覚めが悪いんだ。』
『……承知しました。』
佐井は凡太に手を差し伸べた。その手に掴まり、足に力を入れて立ち上がる。
『もう行こう、恥ずかしい所を見せちゃったからね。』
佐井は無言で頷き、木造アパートへと凡太を導いた。
あの時の夢のように彼に付き随い、ただ一つだけ原型を留めている扉の前に凡太は立つ。
『それでは、私はここで失礼します。お元気で。」
すると、佐井の頭上には渦巻きが現れ、そこから筋肉質な腕が伸びた。
案内人はその腕に掴まり、空に吸い込まれていった。
あれは高橋さんの能力、それと腕はサイのものだろうか。
彼を見送った凡太は扉を開けた。その時ドアノブが外れてしまったが気にはしなかった。この扉を通る者は恐らく、自分で最後なのだから。
中に入った途端、視界は眩い光に遮られた。
何処からか汽笛のような音も聞こえている。
ここで夢は終わるのだ。とは言え、何が起こるのか全く想像が付かない。
『まもなく終点、終点で御座います、長い間お疲れ様でした、またのお越しをお待ちしております。』
背後の扉も見えない光の中で不安になり始めた凡太の耳に、抑揚の無い機械的な声のアナウンスだけがはっきりと聞こえた。
(これは一体……)
しかし、思考する間も与えられずに足元にあるはずの床の感覚が無くなった。内臓が押し上げられるのを感じる。
光が消え、雲を突き抜けた。
凡太は天高くから落下していたのだった。
母と暮らした家、街までの道のり、置いたままにしてしまった軽トラック。何もかもが見えた。
どちらかと言えば高所は苦手だったが、不思議と恐怖は無かった。
眼下に広がる風景を見ていると、走馬灯のように記憶の波が押し寄せてくる。
気付けば凡太はまた、泣いていた。
その時、再び汽笛が鳴った。
凡太が空中で身体をよじり背後を振り返ると、奇妙な鯨が空を泳ぎ、こちらへと向かって来ていた。
『楽しい夢、辛く苦しい悪夢、色々ありました。本当にお疲れ様でした。この経験を糧に、元の世界でも一生懸命にお過ごしください。』
鯨の頭には塔のような突起があり、アナウンスはそこから聞こえていた。それが肉体の一部なのか人の手によって造られた物なのかは外観だけでは窺い知る事は出来無かった。
塔の周辺には建物と森が聳えている。建物はどうやら集合住宅のようで、寸分違わぬ大きさの長方形のビルが均一に並んでいた。
そして何より目を引いたのは、鯨を取り巻いているものが凡太と同じく落下している数人の人間だった事だ。皆周章狼狽しているらしく、じたばたと両手足で宙を掻いている。
目前に迫った鯨は大きな口を開けた。
(これで、大丈夫なのか?)
どの道、為す術も無い凡太はそのまま呑み込まれてゆく……
『凡太!?凡太!』
誰かに呼ばれ、瞼を開けた。
室内は白く、ベッドは普段の寝床と比べ物にならない程寝心地が良い。
どうやらここは病院のようだ。
『凡太!良かった……』
母が泣き崩れるのが見えた。わざわざ遠方から駆け付けてくれたのだろう。
『凡太……』
男性の弱々しい声もする。部屋の隅で梅原が椅子に座り込んでいたのだ。
『梅原君が救急車を呼んでくれたのよ……本当に良かった……』
(俺は……睡眠薬を飲んで倒れたのか。)
梅原は罪悪感に苛まれたらしく、虚ろな表情をしている。薬を放置していたと言う落ち度はあるが、彼に罪は無い。口が利けるようになったら謝ろうと、ぼんやりした意識の中でそう誓った。
視線を正面に戻すと、凡太を包む真っ白な布団の上を何やら顔の方へと進んで来る影があった。
それは黒猫だった。凡太は点滴を繋がれた右腕を無理矢理動かし、黒猫を精一杯撫で回した。
黒猫は生きていた時と変わらず、嬉しそうに凡太の手にまとわりつく。母と梅原には見えていないらしく、覚醒を果たした凡太を再び心配そうな表情で見つめていた。
再会は喜ばしい事だが、夢が現実に影響を及ぼしていると言う証拠でもある。こんなにも黒猫の小さな体は暖かく、つるりとした黒い肌は触り心地が良いと言うのに。全ては凡太の作り出した幻影なのだ。
(もうお別れだ。これからは、こっちの世界で生きていくよ。)
『さよ……なら……』
どうにか出せた掠れ声でそう告げると、黒猫は顔に近付き、猫がするように額を押し付けてきた。
そして霞がかかったように全身が薄くなり始め、黒猫の幻影はゆっくりと消えていった。元の居場所へ帰ったのだろう。
その直後、睡魔に襲われた。もう充分に睡眠は取ったはずだが、瞼はずっしりと重くなる。
(もう少し、眠らせてくれ。)
凡太は再び眠りについた。
夢は、見なかった。
十章 夢を喰らう鯨 終わり
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