不器用な慈愛 4

凡太と梅原の旅に、新たに大猿と高橋さんが加わった。


その一行が県概へと再出発を始めた頃、将太は目的地に向け着々と前進していた。


周囲は暗く染まり、空へと登った三日月は口角を上げて微笑んでいる。太陽の登った凡太達の道と違い、こちらは昼夜の入れ替わりが一度も起きていなかった。


将太は最短距離である国道沿いの一本道を真っ直ぐに歩き続けていたのだが、アスファルトは砂利道に変わり、芝の生い茂る大地に見渡せる全ての世界は変貌を遂げた。地図にもこんな場所は記されていない。


ただ、既にぼんやりとだが街の輪郭が捉えられる位置にまで到達している。いずれは辿り着けるだろうと、彼は時折顔の前を横切る人魂のような物体を避けながら歩みを止める事無く進んでいた。


すると、何処かで赤ん坊の泣く声が聞こえた。近くに民家は見当たらない。将太はきょろきょろと辺りを見回した。


その時、目の端の景色で動くものがあった。


すぐにそちらへと向き直ると、み空色の大きな生物がこちらに真っ直ぐ向かって来ているではないか。


恐ろしい事にそれは一匹だけでは無かった。気付けば四方から異形の生物達がじりじりと距離を縮めて来る。取り囲まれていたのだ。


南側。将太の背後からは美しい程に全身を紺青色に染め上げた巨大な達磨が転がってくる。


青く輝く真珠のような見た目とは裏腹に、人間のそれに近い目玉は血走っており、口元からはだらしなく涎を垂れ流していた。体に光沢があるのは涎の所為だと気付き、吐き気を催した。


西側からは瑠璃紺の体色をした人間達だ。将太の目線は彼等の腰の位置に当たるので、一般市民が怪物に囲まれた青年を見つけ、助けに来てくれたなどと言う期待は端から持ち合わせていない。


正面の巨人は上下左右無秩序に飛び出した牙を剥いてにたにたと笑っている。人の小指程もある牙は頰を貫いていたり、顎を貫通している物さえあった。


そして正面の巨人が左右の手に握っているのは後ろ二体の巨人から露出している腸だ。首輪の代わりとして腸を引かれ、犬のように連れられる巨人達は苦悶の表情で涙を流している。その醜悪な姿を見た将太は背筋が凍りついた。


将太が最初に視線を向けた東側の方角からは、み空色の鳥頭の怪物が迫っている。これは小鳥遊を襲ったものと同類であろう。


片足で器用にバランスを取り、頭をぼりぼりと掻く仕草は何処か人懐こそうですらあったが、掻き毟り体毛の無くなった箇所から呆けた中年男性の顔が覗いたのを見て、反射的に顔を背けた。


最後に北側……時折赤ん坊の泣き喚く声が聞こえてくるのはこちらからだ。


黒い布が風に煽られてたなびくアルミ製の棚の奥には光る目がある。


暫く目を離せないでいると、棚が音を立てて崩れた。


そこから現れたのは、蠍のような胴体に幾つもの人間の手足が生え揃った異形の怪物だった。尾の先端にある右手がこちらにひらひらと手を振っている。


そして、正面では見覚えのある大きな顔面が将太に笑い掛けていた。それは凡太達と共にいた時に襲われた、あの男の顔に間違い無かった。


『一応、この姿で会うのは初めてかな?あいつが夢をぶった切らなければこんなに待たせなかったのにね。』蠍はそう言ってげらげらと笑った。


蠍が笑うと、人間のものと思われる肉片が歯に挟まっているのが見えた。それは口内で揺れ動き、死しても尚助けを求め自らの存在を主張しているようにも見える。


……将太の精神が限界に達した。


四方の悪魔達の様相に戦慄し、身動きが取れなくなった彼は、青ざめた顔を隠すように蹲ってしまった。


複数の影はもう、目と鼻の先にまで近付いている……


『やめなさい、その子は関係無いでしょう。野蛮な人ね。』


将太を庇うようにして、恐らく女性であろう何者かが彼の目の前に降り立った。


『久しぶりに人間食べたら止まらなくてつい……腕一本だけでも良いんですけど。』


『いい加減にしなさい!』

女性は蠍に向け声を荒げる。


『……ボス面しやがって。鰐石も何でこんな女に従ってるんだよ。』


『鰐石君も凡太を殺そうとした事凄く怒ってたわよ。勿論、私もね。』


蠍は体を震わせ、湧き上がる怒りを抑えている。かなり短気な性格のようだ。


『一番弱いから反抗する事でしか気を引けないのは分かるけど、駄々っ子みたいでみっともないわよ。』


この一言で蠍の堪忍袋の緒は切れてしまった。とんでもない声量の雄叫びが月夜の草原に響き渡る。


すると突然、残りの怪物達が蠍の肉体に齧り付いた。


そして揉み合う醜い肉塊の境界線は次第に曖昧となり、最後には蠍男を軸とした一つの生物として女性の前に再誕した。


『お前から食ってやるよ!』


全てを受け入れ、継ぎ接ぎされた人形のような姿に変わり果てた蠍は余程自信があるのか、再び笑みを浮かべ二人に接近する。


『最初はとても、素直な優しい人だったのにね。』


悲しげに女性がそう呟くと、蠍の背後で巨影が踊った。


何処からともなく現れた大きな魚が空を泳いでいた。それは獲物を見つけた猛禽類の如く、音を殺して忍び寄る。


途方も無く巨大な黒い影に空は覆われ、辺り一面真っ暗闇となった。


蠍が暗澹たる雲行きを訝しみ、振り向いた時にはもう遅過ぎた。


魚は大型船すらもすっぽりと収まりそうな大口を広げ、鋭利な牙で彼の胴体から上を食い千切ったのだった。


『悪いけど貴方……嫌いなのよね。』

断末魔すら無しに散った蠍に代わり、女性が小さく呟いた。


程無くして液状化し始めた下半身が分裂し、怪物達が元の形状に復元された。


『貴方達はもう自由の身よ、ご主人様の元に帰っても構わないわ。』


しかし、大将を失った怪物達は最早烏合の衆だった。話し終えるのも待たずに女性に襲い掛かって来る。


それを見た魚は今度は口を背け、三日月型のこれまた大きな尾鰭を払い、あっさりと怪物を一掃した。


『この子達って本当に聞き分けが無いのよね。あまりこんな事は言いたくないけれど、生みの親に似たのかしら。』


何事も無かったかのような口調で女性は首を傾げている。


ここまでの一部始終を眺めていた将太は落ち着きを取り戻していた。動かなかった四肢を奮い立たせ、何とか立ち上がる。


助けられた礼を述べようと目の前の人物と向かい合うが、先に口を開いたのは女性の方だった。


『将太君。貴方に一つ、頼みたい事があるの。』


将太は彼女の話に耳を傾けながら共に歩き始めた。夜光虫が顔の前を横切る事はもう無かった。


……時を同じくして、将太の視点から見たこの光景を、凡太も朧げながらに記憶しているのだった。むしろ自分自身の夢であるのだから当然と言えば当然だろう。

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