九章 三途の川

気が付くと、広場にある水溜りを覗き込んでいた。意識が戻ったようだ。


だが、凡太の形をした悪魔は今も尚その姿を保っていた。


広場は静寂が支配していた。将太、母、合成獣だったもの。皆沈黙し、空間と共に無音を奏でている。


(俺がやったんだろうな。)

自分自身驚く程に冷静だった。冷静と言うよりは投げやりになっていると言った方が正しい気がするが。


それにしても長い夢だ。もう目覚める事は無いのかもしれない。ここは終点で、孤独に永遠の時を過ごす……それもまた一興か。


退屈になった凡太は梅原と二人の高橋の姿を探したが、広場の何処にも見当たらなかった。隙を見て逃げ出したのであれば良いが。彼等は標的では無いのだから。


そして探索の途中で何度も破かれ紙屑と成り果てた写真を見つけた。何とか掻き集めて一枚に戻したが、部屋に鰐石はいなかった。


凡太は広場で一番高い瓦礫に登った。空からは暖かい陽光が降り注いでいる。頂上まで薄目を使って登り着き、そこから紙屑をばら撒いた。


他にやる事も無いので宙で舞い踊る紙吹雪をぼんやりと眺めていると、後頭部に何かが当たった。


背後には綱があった。それは穴の空いた天井から垂らされている。


『こっちだよ。』

上からはまた、あの時の女性の声がした。


『これを、登れって言うの?』


『いいから。』

女性は四の五の言わせるつもりは無いらしい。


(仕方無いな。)

数回引っ張ってみたが綱は体重を預けても大丈夫そうだ。


普段の凡太の腕力では到底登り切る事など出来無かっただろうが、ここで悪魔と化した事で手に入れた豪腕に助けられた。凡太は腕の力だけで地上へと昇り始める。


下では母が力無く瞼を開けていた。


その虚ろな目は、太陽を直視しようと絶対に動かされる事は無かった。


何故なら彼女にだけは、赤子だった頃の凡太の姿をした天使が空から舞い降りて来るのが見えていたのだ。


『ふふ……もう少しよ、頑張って。お母さんはここにいるから。』




地上まで這い上がった凡太は、まず目の前の綱の端が結ばれておらず、乱雑に地面に置かれたままになっている事に驚愕した。


とは言えここまで登り着いたのは事実だ、もう気にしてはいけない。


街並みは洋風なものから一変し、無数のビルが高々と背を伸ばしていた。


空は雲一つ無い快晴であり、からりとした空気と何車線もある車道からは、昔写真で見た海外の都市部を彷彿とさせられる。それと、少なくとも見える範囲に人の気配は無かった。


きょろきょろと街を見回す凡太の前で、薄笑いを浮かべて待っていた女性はRだった。


彼女は変わり果てた街並みを一通り眺め終えた凡太に何故か満足した様子でにこりと笑い掛ける。


『久し振り。』


醜悪に変貌を遂げた凡太を目の当たりにしても全く気にならないようだ。


挨拶代わりに頷いた。Rは凡太の赤く変色した両目を見つめる。


『凡太、それは変装?』


『まあそんな所かな。』


『あっ、そう。じゃあ、行きますか。』


『なあ、一体何処に行こうとしてるんだ?』


凡太の言葉を無視して、Rは腕を引いて歩き出そうとする。


『ちょっと待ってよ。』


その手を振り払おうとした凡太の腹に、Rが刃物を突き刺した。


それは日本刀だった。それも毛皮の装飾が施されている物だ。


『いいから。』


『酷い事するんだな。』


全く痛みは感じなかったが、これ以上何かされては堪らない。凡太は黙ってRの言う通り歩いた。


移動を始めた途端、無口になった彼女に気まずさを感じ、話し掛けた。


『探してた景色って言うのは見つけられた?』


『一人では探せないの。』


何だか責められている気がして、罪悪感が湧いた。赤みがかっていた眼球は白さを取り戻した。


『四人であの後何処に向かったんだっけ?』


『京都。雲に触れるくらい高くて長いエスカレーターに乗ったら、一人だけ私達を置いて飛んで行っちゃった人がいたけれど。』


それは凡太の事だろう。恥ずかしさのあまり耳まで赤くなった。犬歯の長さ、鋭さが人間のそれと同じものとなった。


『あの時轢いたのってもしかして……』


『想像した通り、だよ。』


鳥肌が立った。皮膚が零れ落ち、本来の色が我が身に還って来た。


『……いつから夢を見ているんだろう。』


『立ち漕ぎしてた辺りからかな。』


『それは現実じゃないか。』


太陽に照らされた悪魔の影は突然苦しみ出したかと思えば、主人の足元から逃げ出ていった。


そこへすかさず入り込んだのは、元々の凡太の影だった。


今この瞬間、瘴気は完全に消え去り、凡太は元の姿に戻っていた。


『良かった、これで元通りだね!』

Rは凡太の顔を覗き込み、笑顔を見せた。


『それじゃあ私はここで。この道を進めばゴールだよ。』


道の先は曲線を描き、街へと引き返していた。彼女の言うゴールとは街にあり、そして、それは夢の終わりを意味しているのだろう。


『どいつもこいつも……皆俺を追い出そうとするのか。』


不平を漏らした凡太の口を、Rは唇で塞いだ。


『じゃあね。』


『またね、とは言ってくれないんだな。』

Rの返事を待たず、凡太は背中を向けて歩き出した。


振り返る事はしない。出来無かった。


『貴方の夢は、私が終わらせなきゃいけないんだもの。』暫くしてから、Rが呟いた。


『君が今の私に会うのは、これで最後だね。』


彼女の頰から落ちた雫が、刀身をきらりと輝かせた。

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