開戦 3
右腕を振り抜き、鼻っ面を狙う。
相手は体を捻ってその拳を躱した。
(まずい。)
そう思った時にはカウンターの右ストレートが既に顔面に打ち込まれた後だった。
大猿はよろめき、とうとう片膝をついた。
『彼に肩入れしたのが運の尽きです。しかし、貴方はこちら側の存在のはず……』
黒スーツはこの戦いを見届ける為に佇んでいる。
『どちらに付くかは私の自由だろう。私があの子にしてやれるのはこれくらいなのだから。』そう言って吐き捨てた唾には血が混じっていた。
道の先からは何かが崩れるような音と地響きが引っ切り無しに続いている。凡太と鰐石の戦闘が始まったのだろう。
(願わくはこいつを打ち負かし、彼と共に戦いたかった。)大猿の頭は垂れた。サイは地下道で出くわした魔物達とは訳が違った。今の凡太ですら苦戦を強いられるかもしれない。
一方でサイはなかなか大猿を殺そうとせず、しきりに辺りを見回していた。騒音が先程とは比べ物にならない。これによって集中を乱されるのだろう。
(……これは別物だ。)
音はいつの間にか地面を掘り返すようなものに変わっている。
そして、音源はかなり近い。
『!』
大猿は反射的に後方に飛び退いた。
次の瞬間、壁は発破したように砕け散り、土煙が辺りを取り巻いた。
『どっちだ。』
幼さを残した声が、壁に出来たばかりの穴から聞こえた。
『どっちだ!僕の育てた鶏を殺したのは!』
土煙が消え、少年が現れた。
坊主頭に黒縁眼鏡。手足は棒のように細い。そんな見た目をした、非力そうな少年は怒りで顔を真っ赤にしている。
彼は大猿にその顔を向けた。
『君は凡太の知り合いか。うん、凡太の匂いだ。ちょっとだけ血の臭いがするのは、君自身のものだね。』確か、高橋と言う少年だ。凡太の話で何度か耳にしている。さん付けで呼ばれている方とは対照的な見た目だ。
『じゃあ、こっちか。』
『間違いありません。大変申し訳御座いませんでした。ですが地下に潜伏してからと言うもの、この子が食糧に困っていたので仕方無く……』
高橋は黒スーツの謝罪を無視してサイの前に立った。ゆさゆさと身体を揺らし重心を低くしている。どうやらあれが彼の構えのようだ。
『……怪我では済まないのですよ?』
黒スーツは困惑していた。
そしてサイまでもが戦うべきか迷っていた。きまり悪そうに拳を開いては閉じる動作を繰り返している。
しかし、そんな事はおかまいなしに高橋は動いた。無謀にも化物に正面から向かってゆく。
迫る少年を前にしてサイは漸く彼を殺す決意を固めたようだ。脇を締め、引きつける為か一歩も動かず待ち構えている。またカウンターを狙っているのだろうか。
ところが間合いに入る直前、高橋はしゃがみ込んだ。相手の視点からは突然消え去ったように見えただろう。更に開いた身長差に、大猿の両目は無鉄砲な少年を文字通り窮鼠のように映し出した。
高橋はしゃがんだ状態から勢いをつけて地面を蹴り、両腕を突き出した。
(何だあれは、子供の考える技だ。)
見ていられなくなり、大猿は気力を振り絞って立ち上がった。加勢しなければ彼は殺されてしまう。
サイは無様に跳ねた闖入者を見て完全にやる気を無くしていた。仕方無くこうするのだと言わんばかりの気怠さで両腕を交差させ防御の姿勢を取る。その姿は機械仕掛けだった父と良く似ていた。
だが両者が接触する直前、化物の目に恐怖の色が宿ったのを大猿は見逃さなかった。
結果として高橋のふざけた技はサイを吹き飛ばした。唸り声に近い轟音が地下内部に反響し、風圧で黒スーツは紙切れのように宙を舞った。
サイの体は壁にめり込んでいた。全身の痛みに顔は歪み、驚愕の出来事を目撃していた瞳だけが見開かれている。
『油断するからこうなるのさ。』
高橋はそう言って笑った。
『お前……どこでそんな力を……?』仰向けに倒れた黒スーツは首だけを動かして高橋を見上げる。
『さあね。でもこんな役回り押し付けられたら、誰だって強くなるよ。』
少年は、無邪気な笑顔のままそう返した。
(凡太!お願い、目を覚まして。)
頭痛と共に女性の声が聞こえてくる。何処からか凡太に話し掛けているのか、それとも頭の中だけで響いているのか区別がつかなかった。
(やめてくれよ。何でよりによって今こんなのが聞こえるんだ。)
そう思うのも当然だろう。凡太の思考は目の前の問題にどう対処するかと言う事だけに注力しなければならないのだ。少なくとも今だけは。
現在、鰐石には圧倒的な戦力差を見せ付けられていた。
無限に再生を続ける鰐。そこに的確な指示を出す鰐石ときている。奴らによって高橋さんの生み出した怪物も半数以上がやられてしまった。
そして二人は瞬く間に窮地に陥り、瓦礫の山に身を隠していたのだった。
『……え、ねえ、聞いてる?』
女性と高橋さんの声が重なり、上手く聞き取れない。
『あ、すみません。何ですか?』
『もう頼みの綱はお猿さんだけでしょ、今出せないの?』
『……それなんですけど、実はまだサイを倒した訳じゃないんです。大猿が今あいつと戦ってて、ええと……だからいないんですよ。』
『え……そ、そうなんだ。じゃあ、俺達結構まずいね。』
二人は瓦礫からそっと顔を出した。運良く鰐はまだこちらの居場所を割り出せてはいないようだが、見つかるのは時間の問題だろう。
『あれさあ、鰐は目が横の方に付いてるし、鰐石も乗ってるもんがデカ過ぎて下見えなさそうじゃん?探すの大変そうだね。』高橋さんは笑っている。この状況でよくそんな顔が出来るものだ。
『まあ、俺の出した奴らも敵わないし、そのカメラも鰐には意味無いんじゃ、隠れてるしかないか。』
その通りだ。サイに使えた戦法も鰐が相手では通用しない。
(待てよ。鰐相手なら意味無い……けど。)
これまで鰐を倒す事ばかり考えていたが、司令塔である鰐石をどうにか引き離せれば、雀の涙程の勝機なら見出せるかもしれない。
『高橋さん、こんな奴って出せないんですか?』
『え……ああ、たぶんいける。』
凡太の頭に一つの策が浮かび上がった。もし失敗すれば、それは全滅と同義ではあるが。
(凡太!凡太!)
自分を呼び続ける声に、意識を吸い寄せられてしまいそうになる。
しかし、その不安が凡太を迅速なる行動へと移させた。
目覚めてしまえばどんなに楽だろうと思いつつも、こんな体験は二度と出来無いであろうと言う確信が自らを夢の世界に押し止めたのだ。
『おい!』
高橋さんの声が広場の喧騒を貫いた。
鰐は巨体を揺らし、彼の方へ向き直る。
『凡太は出て来ないのか?』
余裕そうな表情の鰐石は、高みから言葉を投げ掛けた。
『凡太君は秘密兵器を用意して何処かで使う時を待ってる。ここに腐る程ある物陰に注意するんだな。』
高橋さんはそう言っておどけてみせる。そのすぐ後に、左右にあった瓦礫から一斉に怪物達が飛び出した。
『またそれか、芸が無いな。』
鰐石が足を小刻みに動かすと、鰐は図体に見合わぬ俊敏な動きで回転し、何もかもを一掃した。奇襲は早くも失敗に終わったのだ。
『あーあ、やっぱり駄目か。』
『むしろ今までよく耐えた。あんたの事を見くびっていたよ。』
鰐は最後の仕上げだとばかりに、あまりにも大きな口を開いた。口内には怪物達の返り血で染められた無数の牙が見える。本物の鰐にも喉彦はあるのだろうか。
高橋さんはと言うと、何とそれを見ても一歩も動かなかった。
その間にも牙は彼に迫り、とうとう一人の人間を誘う為に開かれた地獄の門は閉じられてしまった。
裂かれた肉体が断末魔の叫びを発すると、生き残っていた数少ない怪物達の体が溶け始めた。
怪物だった者達は完全に溶け切り、地面には色彩の豊かな水溜りが複数出来上がった。こうして広場には久方振りの沈黙が訪れた。
高橋さんの呆気なさ過ぎる最期が鰐石は何処か腑に落ちない様子であったが、水と化した異形が静寂を保っている事に満足したようで、こう言い放った。
『凡太!仲間の最期も看取ってやらないとは見損なったぞ!最初の威勢はどうした!』
『余計なお世話だ!』
鰐石は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。何故ならその声が唯一の死角となっていた頭上遥か高くから振り下ろされたのだから。
『……高橋を切ったのは失敗だったかもしれないな。』
『本当に、こいつが飛び上がれるぎりぎりの時間稼ぎだったな……』
相対する両者が、思わず呟いたのは同時だった。
人間一人を乗せて空を飛んでいる鳥頭の怪物には即席の改良が施されていた。体格に見合わぬ小さく真っ白な翼が両足の代わりに備わっている。高橋さんの拙速さは未だ健在らしい。
凡太は合図を出し、鳥頭を急降下させた。だが降下と言うより墜落に近かった。
『……何が来るかと思えば。そんなもので何が出来ると言うんだ!』鰐石は笑いながら言った。
しかし、凡太が取り出したカメラを見て、その顔に緊張が走る。
『……言ったはずだろう、こいつの前では無意味だと。』
『どうかな。』
凡太は手を振り上げようとした鰐石に狙いを定め、撮影した。
見事司令塔は消え去った。作戦は成功だ。
喜んだのも束の間、鳥頭は鰐に不時着し、その背中が意外にも柔らかい事を知った。
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