冒険 4
果てし無く続くと思われた直線の道が大きく弧を描き始めた。
その先には小さな草原があり、草花が寄り添いながらそよ風に吹かれ、囁きを交わしている。
どうやら水田に流れ込んでいる水は草原を縦断している川の先にある薄暗い洞窟から吐き出されているようだ。
道は二つ。しかし自ら好んで洞窟を選ぶ物好きはいないだろう。凡太は草原に足を踏み入れた。
ふと前方を見上げると、小高い丘の上には大きな街が姿を現わした。町並みは洋風であり、全ての屋根が青で統一されているのがここからでも見て取れる。
喜んだ反面、あの街までは落ち着ける場所は無いだろうと予測出来る。日が落ちるまでに辿り着けるだろうか。
凡太は無意識のうちに小走りになった。
すると、前方からこちらへと迫る影を見とめた。
それは人では無かった。牛だ。この世界で出会う牛ならば間違い無く魔物であろう。凡太の身体に戦慄が走った。
今思えば混乱と焦りによって判断力を失っていたのだろう。凡太は傘を固く握り締め、無謀にも猛牛へと突っ込んで行った。
牛は速かった。先手を取る為こちらも一挙動早く鉄傘を突き出す。
しかしそんな事はお見通しと、自ら間合いに入った猛牛は攻撃を角で弾いた。
相手の知能ある行動に驚き、すぐに攻撃の手を止めた凡太は傘の先端と柄を持ち、受けの姿勢を取る。
その直後体当たりを喰らい、凡太は草原を転がった。
身体が痺れた。ふらふらと立ち上がる、それだけで精一杯だった。
恐ろしい怪力を持つ猛牛とは約五メートルの距離があった。鉄傘は弾き飛ばされてしまったのか見当たらない。
凡太は視線を正面に戻した。見れば見る程現実のものとはかけ離れた姿形であり、改めて目の前の存在が魔物だと言う事は視覚を通じてひしひしと伝わってきた。
体は土色で浅黒く、角は羊のように螺旋を描いている。その巨体に血液が付着しているのは先程の攻撃で角が凡太を貫いたから、なのかもしれないが今は考えたくは無い。
何よりも恐ろしいのは人間のそれと非常に良く似た眼球だった。煙草のヤニを思わせる黄ばんだ色をしており、瞳孔はその中で鈍い輝きを発していた。
そして額にも大きな目玉が一つあった。そちらも通常のものとは違い、白いはずの結膜は鮮血のように真っ赤に染まっている。角膜は吸い込まれそうな程に黒く、冷たい視線が鋭く光っていた。
魔物は勝利を確信し、勝ち誇ったようにこちらを見つめている。
「人間、私に会ったのが運の尽きだったな。」
驚いた。奴は人語を話せるらしい。
「お前はここで一番強い魔物のようだね。今の戦いだけで分かる。」叫び出したくなる気持ちを抑え、何とか会話を続けた。今のうちにどうにかしてこの場を切り抜ける糸口を見つけねばならない。
「如何にも、私はこの草原の主だ。そして私のように普通の魔物と戦い、死ねる貴様は恵まれている。上位の魔物は私とは比べ物にならないぞ、恐怖よりも絶望の方が、私にとっては恐ろしい。」
魔物は顔を少しだけ歪ませ、まだ見ぬ強敵の偉大さを思い起こしているようだった。
「…それは恐ろしいな。」
凡太の頭は逃走の事で一杯であり、鸚鵡返しの返答しか返せなかった。
この危機を打開する方法は無いものか。凡太は魔物に悟られぬように気をつけながら、周囲を見回した。
かなり吹っ飛ばされてしまったらしく、背後は川だった。
川辺には多くのゴミが流れ着いていた。何か良い物は無いかと手で探る。
その時、右手が長い棒のような物に当たった。
(先端の丸い鉱物は、宝石だろうか。)
土に塗れたそれは、異国の御伽噺で魔法使いが持っている杖に似た物だった。この世界ならば勿論、魔法も発動出来るのだろう。
問題は一つ、凡太は魔法の類は一切身に付けていないと言う事だ。
だがこの杖を使い呪文を唱えようとでもすれば、魔物は遠距離の攻撃を警戒し、隙が出来るのではないだろうか?
凡太は覚悟を決めた。
「貴様、何か企んでいるな?下手な真似は命取りになるぞ、と言ってもどの道死んでもらうのだがな。」
魔物は前足で地面を蹴った。最後の仕上げにもう一度体当たりを喰らわせる気でいるのだろう。
すぐに杖を持ち、魔物へと向けた。すると相手の動きが一瞬にして止まった。
「これが無かったらお前の言う通り、ここで死んでいたよ。」
その途端、魔物の顔が恐怖で引き攣った。
正直ここまで杖を恐れるとは思わなかった。奴は過去に魔法を使う者と戦い、痛い目にでも遭わされたのだろうか?
「ま、待て、それをこちらに向けるな!仕方無い、見逃がしてやる!だから杖を今すぐ捨てろ!」
魔物がそう言った直後、凡太は相手に背を向け、地面を蹴った。
「じゃあお言葉に甘えて逃げさせてもらうよ!そんな気はさらさら無さそうだからね!」
川に飛び込んだ。見上げると、魔物は既に凡太が元いた場所にまで到達していた。
しかし減速が間に合わず、川に突っ込んでしまい溺れたまま流されてゆくのが見えた。やはり見逃す気は無かったのだ。
この流れを遡れば洞窟がある。草原を進んだ所で他の魔物に遭遇しないと言う保証は無く、もしも牛の魔物が川岸にでも這い上がってしまえば凡太に復讐しに戻って来る可能性も捨て切れない。
それに鉄傘は失くしてしまったのだ。杖は持っていたとしても何の役にも立たない。どちらを選ぼうと似たようなものだ。
凡太は杖を川に流し、溜め息を一つ吐いた。そして両手で水を掻いて洞窟を目指し泳いだ。
早くも洞窟に入った事を後悔していた。
まだ魔物の姿は見当たらないが、無数に枝分かれしている道の先からは不気味な鳴き声が絶え間無く響いている。
(魚の魔物なんていなきゃいいけど。)
凡太は脇道には目もくれず、真っ直ぐに泳ぎ続けていた。
せめてもの救いだったのは意外にも内部に街灯があった事だ。そのお陰である程度先は確認出来る。
凡太は悪臭で満たされた水路を音を殺して泳いだ。水中から魔物が顔を出して……そんな妄想を何度も振り払いながら。
暫く進むと流れが浅くなり、右側の陸地に橙色の暖かい光が見えた。こんな場所に誰かいるのだろうか。
「あっ!」
思わず凡太は驚きと喜びの入り混じった声を発していた。
「誰…?」
三角座りをしている少年は不安そうな表情を浮かべ、こちらに顔を向けた。
将太だ。彼は凡太の友人であり、勿論実在している。
将太とは彼が小学生の頃に転校して来てからの付き合いだった。手紙等の簡単なやり取りは今でも続いている。
本人がどう思っているのかは分からないが、充分気のおけない間柄とは言えるだろう。
夢の世界に疑問など感じていてはきりが無いのは重々承知しているが、ここで友人に出会うとは未だに信じられない。夢の中での知り合いは母と連れ立って行く町の店先等、脅威の存在しない場面では比較的顔を合わせる機会があるのだが、辺境の地では大概は孤独なのだ。
とは言え自分自身の夢だ。将太の登場は凡太の望みでもあったのだろう。現に友との再会に束の間だが恐怖を忘れられたのだから。
「凡太…凡太じゃないか!でも、何でこんな所にいるの?」
将太は疲れた顔を少しだけ歪ませて笑った。不安の色は消え、安心している様子だ。
「草原で牛の魔物と戦ったけど勝てなかったんだよ、その後川に飛び込んでここに来た。」
将太にここへ来た経緯を軽く説明した。
「一緒だね、俺はその所為で杖を失くしちゃった
よ。」
将太は言った。彼の背丈は凡太と同様、小学生の高学年くらい、と言った所だろうか。
『そうか、あれは将太の杖だったのか。』
だとすると将太は魔法職を手に入れたのだろう。
その証拠に橙色の灯りの正体は将太の掌から放出される炎だった。杖を所持していなくとも基本的な技は使えるらしい。
「あの杖のお陰で助かったんだ。でもお互い丸腰って事か。」
言葉にしてしまうと何だか可笑しくなり、二人は自然と笑顔になっていた。だが状況は依然として芳しくは無い。
「とりあえず先に進まないか?どうせなら街まで行けるか試してみたいんだ。」
「そうだね、こんな所にいても仕方無いし、いいよ。」
将太は腰を上げた。
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