冒険 3

……今思い出しても涙が滲む。

あの夢だけはもう二度と御免だ。


凡太は未だ巨石のように動かぬ化物の前から踵を返し、全速力で元来た道を駆け戻った。


橋を越え轍の跡が残る畦道でやっと凡太は立ち止まった。身体中に鳥肌が立ち、冷たい汗が背中を伝う。


(やっと息が出来る。)

あの夢で化物の首筋に鋏を突き付けた感触は今でも忘れられない。


そう言えば、断ち切る事は出来無かったが化物の首からは少量の血が流れていた気がする。家の住人は四人。殺しても復活する者は無視し奴が現れるのを待てば、倒せる可能性が出てくるかもしれない。


(…いや、これ以上考えるのはよそう。)終わった事をあの時ああすれば、と考えるのは凡太の悪い癖だ。

それに、またあの怪物と一戦交える為だけに一日を浪費したいとは思わない。安易な考えは振り払った。


凡太は気を紛らわす為に、正面の畦道をぼんやりと眺めた。


以前、自転車で何処まで行けるのか試した際に発見したのだが、目の前の道を進み続けると、田植えを終えたばかりの水田が広がっている事を凡太は知っていた。


あの時は途中で目が覚めてしまったが、水田の先には新たな夢が待ち受けているのだろう。


(求めるのは…冒険だ。)

欲を言えば王道のロールプレイングゲームのように魔物達と戦い、自身を強化しながら歩んでゆく物語がいい。


望めばそれが反映される場合もあるのだ。夢の中で強く願う事さえ思い出せれば幻の現実は何もかもを与えてくれる。悪夢の時以外は。


行き先すら自分自身の意思で決められる夢は未だ貴重だ。そんな時の凡太は必ず新地を開拓しているのだった。


(よし決まりだ!急がないと。)

先程の不快感を置き去りに、上機嫌になった凡太は準備をしようと自宅へと駆け戻って行った。


その背後では、今まで鳴き声も出さずに大人しくしていた蝉が風景に溶け込んでいるのが見える。


それが突然じじじ、と死に際のように鳴いたかと思えば背中からぱっくりと二つに裂け、中からは白い羽化したばかりのものが露出した。成虫が脱皮をしているのだ。


奇妙な蝉は瞬く間に通常の個体の四倍、五倍程にも膨れ上がり、飛び去った。




息急き切って走り続けた凡太は家に辿り着いた。


まず玄関の傘立てに置かれていた鉄製の傘を抜き取る。


それは金属バットのように重く、芯もしっかりとしている代物だった。かなり良い武器になるだろう。こんな物を誰が置いたのか見当も付かないが、感謝しなければならない。


次に、部屋で寛いでいるであろう母に向けて叫んだ。


「母さん!今日は帰らないかもしれないから晩御飯は用意しなくていいよ。」


そう言って勢い良く扉を開けると、母が卓袱台の上にティッシュの箱を置き、更にその上に鏡を置いて作った即席の化粧台の中の自分を睨み、紅を塗っているのが玄関から見えた。


「分かったわ、気をつけていってらっしゃい。」口紅を置きながら母は言った。


それを聞いて家から離れた途端、凡太の背丈が縮み、服装に変化が起こり始めた。


足は面ファスナーの付いた黒いサンダル、下は身動きは取り易いが地味な特徴の無いズボン、服は紺色でアニメのキャラクターのような目玉が背中にあるTシャツに変わった。それは親に決められるがままだった幼少期の頃の服装だった。


『…ダサいな。』思わず呟いた。


まあ気にする事は無い。現実でこんな格好をしているのを知り合いに見られては適わないが、ここではそんな心配は無用だ。


凡太は再び走り、本日二度目の分かれ道を迷わず右折した。


すると景色の中に、今まで存在していなかった生物達がいた。大人の拳大のバッタが群れを成しているのだ、虫は苦手では無いが、この大きさは流石に気味が悪い。


一匹が凡太に驚いたのか、こちら目掛けて飛んで来た。


それを見た凡太は反射的に鉄傘を振るう。


バッタは一瞬にして砕け散り、その場には青白く光る物体が残った。


(これはたぶん、経験値みたいな物だな。)凡太は手でそれを掬い上げる。


その瞬間掌に沈み込むように、経験値の小粒は肉体の一部となった。


こうして戦いを積めば、次第に強くなってゆくのだろう。


(ゲームみたいだ…願いが叶った!)

凡太は興奮し、周りのバッタを全て倒し尽くしたい衝動に駆られた。


だが、この先に何があるのかも気になる所だ。

それにいくら一撃で倒せる相手と言えどここで体力を消耗させるのは得策では無い。欲望を前面に出し過ぎれば命取りとなり、至福の眠りから覚めるのが早まるだけだ。


凡太は歩みは止めず、目の前に躍り出るバッタのみを倒す事にした。




暫く進んで気付いた事がある。


魔物達の見た目は現実的だが、見分けるのは非常に容易であった。


見渡せばバッタ、蝉、カエル、ヘビ等が見えるが、どれも通常の個体と比べるとかなり大柄である。つまり辺り一帯にいる生物全てが魔物なのだ。


バッタは今の装備でも一撃で倒せる事は分かっている。しかし爬虫類や両生類は昆虫よりは手強そうだ。力試しに一戦しておこうかとも考えたが、今の所は前進する事に集中した。


すると、地平線の先に水田が顔を出した。まだまだ距離は長い。


だがこんなものは些細な問題に過ぎない。何故なら家からずっと走り続けているのだから。凡太は疲れを知らない肉体までもを手に入れたようだ。


無尽蔵に稼働する両足を駆使して距離を稼ぎ、遂に田園地帯へと足を踏み入れた。


喜び勇んだ凡太だったが、一つ気掛かりだったのはレベルの事だ。バッタしか倒してこなかったので、能力値の上昇はあまり期待出来無いだろう。居場所が変われば魔物の種類や強さも変わる可能性は高い。


ある程度経験値を得ると力が漲る瞬間があり、恐らくそれと同時にレベルが上がっているのだと思われる。それにより腕力も向上しているらしく、一度他のものよりニ回りも大きなバッタが飛び出して来たが、一撃で簡単に葬り去る事が出来た。


能力値を確認したいが、どうすれば表示されるのか、それともやはりそんな物は存在しないのか。現状ではまだ分からない。


(実戦、してみるか。)

ここまで来て力尽きてしまうのは痛い。考えを改めた凡太は前に進むのを一時中断し、近くの魔物と試しに戦ってみる事にした。


畦道と水田の境にいる群れから孤立していたカエルに標的を定めた。詰め寄る凡太にカエルは目を向けているが、一切動きを見せない。


深呼吸して鉄傘を振り上げ、一気に距離を縮める。


しかし振り下ろす直前、カエルの舌が弾丸のように腹部を目掛け飛び出した。


舌先が直撃し、バチンと強烈な音が鳴った。だが耐えられる程度の痛みだった。


怯んでいる暇は無い。次の攻撃まで喰らうのは御免だ。


凡太は鉄傘でカエルを叩いた。


こちらの攻撃はかなり応えたらしく、カエルは次の攻めに転じてこない。凡太はすぐさま振り下ろした鉄傘を持ち替え、居合抜きのように振り抜いた。


衝撃でカエルは宙に浮き、空に溶けるように消えていった。急いでその場に残された経験値を拾い上げる。


(…まだまだだな。 )凡太は苛々としていた。


はっきり言ってまだ実力不足だろう。道端にいる魔物も一撃で倒せないときている。


少し鍛えておきたい所だが、休息の取れそうな場所は未だに見当たらない。


凡太は悩んだ挙句、とぼとぼと歩き出した。

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