夢を喰らう鯨

おーるぼん

序章

凡太の唯一の居場所は夢の中にのみ存在する。


彼は今、日付けが変わり静寂を身に纏った街で自転車を走らせていた。


車一台が何とか通れる細い脇道を左に曲がり、坂を少し登った所にある古ぼけた木造アパートが彼の住まいだ。


立ち漕ぎしても尚速度を落とし続ける安物の自転車から降りる。そこはもう自宅の前だった。


外観は言葉で伝えるならば次の瞬間崩れ落ちてきたとしても全く不思議では無い。となるだろう。


玄関扉は凡太を歓迎しているのか、追い返そうとしているのかも分からないような悲鳴を上げ、住人を迎え入れた。


共用である玄関の隅には鼠と見間違う程の大きな埃が溜まっている。引っ越して来て最初の頃はよく驚いて入口で硬直してしまったものだ。だが掃除を行なった事は一度も無い、誰もしないのだから。


凡太は急な階段を登り、右側の扉を開けた。

左側は別の住人の部屋であり、今日も隣からは念仏のような細々とした声が薄い壁を貫通して聞こえている。


凡太は隣人に聞こえぬよう、その声に『ただいま。』と挨拶を返し部屋へと転がり込んだ。


この時期はまだまだ夜が冷える。しかし凡太の家には暖房器具と呼べるものは存在していない。


エアコンはある事にはあるが、入居した当初から絶命していた。役目を終えたままの姿で壁に貼り付けにされる彼の心情を想像すると余りにも残酷、かもしれない。


布団から手足さえ出さなければいいのだ。この家での最高の暖は自分自身だ。


明日の準備もそこそこに、凡太は着替えもせずに六畳一間の黴臭い部屋の窓際に敷かれた万年床に潜り込んだ。


シャワーは朝浴びればいい、ただでさえ睡眠時間は貴重なのだから。


一日の仕事で肌寒い季節にも関わらず少なからずの汗をかく、また居酒屋でアルバイトをしている凡太のシャツには酒や煙草、食べ物の匂いがこびりつき、とても睡眠に適した状態とは言い難い。


しかし凡太はそんな事は御構い無しだ。羊を数えた先に現れる深い闇を抜け、現実とも幻とも判別のつけ難い世界で再び目を覚ます事が何よりの楽しみだった。彼は夢を見るのが日課となっているのだ。


何もかも放り出し、明日の仕事までの睡眠時間を計算した。より多く眠れる日は上機嫌で自転車で風を切って帰路に就くのだ。


彼が今生きている現状と夢とを比較すると、夢の世界の自分の方が何倍も幸福であり理想であった。縛られる物や頭を抱える問題も無い、まさに夢心地の時間だ。


また、そんな世界を現実で思い返す為に日記も付けていた。読む度に瞼の裏で昨日の事のように蘇る夢の数々は、何にも変えがたい存在でもあった。


凡太は目を瞑り、何も考えずにただ瞼の裏にある暗闇を見つめ続ける。


余りにも想像を膨らませ過ぎると夢どころか眠りにも入れないので注意しなければならない。


瞑想するように布団の中で息を潜めていると、意識はゆっくりと微睡んでいった。

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