一章 冒険

自宅前から夢は始まりを告げた。


服装は変わり、黒い無地の長袖シャツと所々ほつれているジーンズ、靴はスーツ用の革靴で腕には安物だが狂う事なく時を正確に刻み続けている黒の時計を身に付けていた。


木々は奇妙な形に根を這わせ、葉は太陽の光を拒むように生い茂っている。だが暖かい木漏れ日は間を抜け、家を優しく包み込むように葉の隙間からその姿を覗かせていた。


家は先程のみすぼらしい木造アパートとは違う。大きな洋館であり、非常に落ち着いた佇まいである。


脇には凡太と母が共用で使っている軽トラックが置かれている。車は殆どの場合、母が町に出向く時に使われていた。


凡太は家の扉を開けた。背丈程もある大きな扉は音も無く開き、現実との違いを見せつけてくる。


中に入ると、母が玄関の前で凡太の帰りを待っていた。


母は少々過保護気味であり、いつも忙しなく家事をする為部屋中を動き回っている。玄関に立っていたと言う事はひと段落つき、既に食事の準備が出来ているのだろう。


「おかえり、遅かったね。」


「うん、つまんない現実が少し長引いたんだよ。」


「つまらないなんて言わないの。」


この世界の母は現実と全く変わらない存在としてここで生活している。つまり凡太自身母にはそのままの状態で満足しているのだろう。


凡太は靴を脱ぎ、玄関の奥にあるリビングへ向かった。


十畳の空間には直に床に座ると丁度良い高さとなる小さな卓袱台、夏だろうとしっかりと床に敷かれた緑色の電気カーペット、壁際には丈の低い卓とは不釣り合いな大きさのソファがある。室内は少しくたびれていて懐かしい匂いがした。


本日の献立は一口大の大きさのウインナー、スクランブルエッグと脇に添えられたレタス、それとトーストだ。


凡太は内容に満足し、母と向かい合って座り、嬉々として食事を始める。


その際母が何か話していたが、普段まともな物を口にしていない凡太は食事に夢中だったので聞き取る事が出来無かった。『今のままだと…』そんな事を言っていた気がするが、返事はしなかった。


料理を全て平らげた凡太は皿を洗い、母はソファに腰掛ける。


皿を拭き上げた凡太は玄関に向かった。


「母さん、出掛けてくるよ。」


「…いってらっしゃい。」母はいつも通り、詮索はしてこなかった。


凡太は何も持たず、そのまま家を飛び出した。




(さて、どうしようかな。)


凡太は家の前で佇み、少々思案してから歩き出した。


家の周囲は森のようになっているのだが二、三分程歩けば特に現実とも代わり映えのしない田園風景が広がっている。


そちらの方向へ木々の群れを抜けてゆくと、かなりの年月を感じさせる古民家だったであろうものが最初に目の前に現れた。


瓦の間から雑草が顔を出す廃屋の脇を通り、Y字路の前で再び立ち止まる。


電柱を正面に据えた分かれ道だ。左は少し前に行った事がある。少し前とは勿論、夢の中での事柄である。


左側の道を進み続けると突然切り立った崖が出現し、海が見える。


崖の擦れ擦れまで民家が存在しているので、全くその予兆も無いままに広大な海原は凡太の目前に現れるのだ。


そこに居るととても落ち着くので読書でもしたい所なのだが、あいにく持ち物はこちらへは持ってこられない場合が多く、実現させるのは至難の業だろう。


また、海岸沿いの民家では雌の柴犬が放し飼いにされており、彼女は凡太を見つけると駆け寄って来てくれる。


……そんな可愛らしい友人には悪いが、今日は新しい発見を求めている。


凡太は右側の道を選んだ。




少年時代に過ごした田舎町を彷彿とさせるノスタルジーな雰囲気の風景が続いていた。


目の前に現れたくたびれた橋をぎしぎしと板を軋ませて歩く。


既に取り壊されているが、生まれ故郷にもこれと似た造形の橋があった。現実とは儚く残酷なものだ。


穏やかな水音に木製の手すりから身を乗り出すと、下ではゆっくりと小川が流れていた。しかしかなりの落差だ、落ちたらまず助からないだろう。


(ただ、何か物足りないんだよな。)


そう思っていたが漸く気が付いた。周囲は今、物音一つしない静寂に包まれているのだ。凡太の脳味噌では風景は再現する事は出来ても音声までは難しいらしい。


橋を渡りきると、風景は家の周りに近い深い森へと変わった。唯一の違いは錆の浮いた鉄柵が設置されている事だろうか。非力そうな柵は最早何者の侵入も防ぐ事は不可能であろう。


少し進んだ所で道は途絶え、木々に行く手を阻まれる。行き止まりだった。


近付くまで気が付かなかったが、木陰になっている場所には何か大きな生物が蹲っていた。


鼻先には大きな角、凡太の体を覆い隠す事も出来そうな巨躯の持ち主だ。


サイのような顔をしてはいるが手足は長く人間のものと酷似している。その灰色の体には動きを抑制するのか、むしろ俊敏にするのか、用途の分からない肉体矯正を目的としたような器具が取り付けられている。


(しまった、この場所は一番嫌いな悪夢の入り口だ。)凡太は思い出した。


右側の道には行った事のある場所など無いと思っていたがむしろ何度か訪れている。ど忘れしてしまっていたのだ。場面や状況がその時々によって違うのが大きな要因だろう。


やはりこちら側へと旅立つ前にはきちんと今までの夢を記録した日記を読んでおくべきだったのだと凡太は後悔する。


目の前で銅像のように動かないでいる化物と初めて出遭った時の事が頭に、その肉体に蘇ってきた。

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