隣の世界のマテリアリティ

夜長 明

世界は簡単に死なない

第1話 プロローグ

 刺激的な毎日にも憧れるけど、どちらかと言えば穏やかな日々を過ごしたい。その方が気楽だし、なにより平和だ。平和より価値のあるものなんて、この世にない。


 昨日見たドラマが面白かったとかスマホゲームのガチャがどうのといった話題で溢れている、にぎやかな放課後の教室。その片隅で、涼風洸すずかぜ こうは淡々と自身の人生論を説いていた。どうしてこんな話題になったのかと言えば、それは石黒いしぐろ悠理ゆうりに「きみ、夢はある?」と尋ねられたからに他ならない。


 反応が気になって、ちらりと盗み見るように相手の表情を伺ってみる。……案の定、困っているのか楽しんでいるのかよくわからない顔がそこにあった。


「きみは本当に高校生?」


 と石黒は言った。石黒は洸の数少ない友人のひとりで、涼風などという珍しい名字が似合いそうな、どことなく世間離れしたやつだった。同級生を「きみ」と呼んで、ここまで違和感がないのは石黒くらいのものだ。


「もちろんそうだよ」

「そういう斜に構えた感じが、高校生らしくないんだけどね」

「今の返答の、どこが斜に構えてるんだろう?」

「態度かな。それより、千枝ちえ先生に用があるって言ってなかった?」


 石黒の言う通り、洸はこれから職員室に行くところだった。けれど、そこまで急いでいるわけではない。


「もう少し後でいいよ。いま大事なのは、石黒が平和の素晴らしさを理解することだから」

「別に軽んじてはないけど」

「それじゃだめなんだよ。いいかい、平和は常にポジティブに捉えられなくちゃいけない」

「というと?」

「みんなが目指すべき理想ってことさ。当然だろう? 後々の平和が保証されるなら、最悪、戦争だって意味をもつ」


 やれやれ、とでも言うように石黒は首を横に振る。


「きみは平和を求めているのかそうじゃないのか、よくわからない。だいたい、平和が保証される戦争って何だ?」

「さあね。今のはもののたとえだよ」


 とはいえ、それがまったくの出まかせではないことを洸は自覚していた。平和は高価なものだ。そのために、ある程度の代償はやむを得ない。


「確かに平和は素晴らしい。でも、それより大事なものだってある」

「それは?」


 洸が尋ねると、石黒は得意げに語った。


「きみにわざわざ説明してやったりはしないけど。自分の信じることは、少なくとも自分が信じているだけで十分だ」

「まあ、一理ある」

「だろ? 夢は内に秘めておかなければいけないんだよ。言葉にすると、どうしても安っぽくなる」

「それは同感だね」


 口ではそう答えつつ、なら、わざわざ夢の話を振るなよと洸は思った。けれど、これは石黒の常套手段だ。本気で腹が立ったわけではない。


 きっと石黒は今の台詞を言いたかっただけなのだろう。自分が話したいことを話す前に、それに近い話題をまず相手に投げる。するとその自分の話したいことは唐突な自分語りではなく、自然な会話の流れに沿ったものとなる。こういう細かい配慮、あるいは小細工こざいくを効かせるのが、石黒は上手い。


「そろそろ行くよ」


 と言って洸は席を立った。石黒はただ小さく「ああ」とうなずいた。


 石黒は友人と言っても、休みの日に一緒に遊びに出かけるような仲ではない。学校で気が向いた時に話すくらいの、ドライな関係だ。洸はそれが気に入っていた。むしろ、このくらいの距離感がベストであるとさえ言える。


 平和で穏やかな生活は得難い。親交の深い友人の存在は、それを実現する手段であると同時に、安定した秩序を乱す不確定要素にもなりうる。そして、この場合においてはデメリットの方をより重く見るべきだ。つまるところ、洸に親友と呼べる相手はいなかった。すべては平和な日常のために。


 ——だって、そうだろう。


 平和な世界と、そうではない世界。どちらが良いかなんて、考えるまでもなく決まっている。

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