第18話 修練(4)

「え、何が?」


 あまりに唐突な質問に、思わず洸は間抜けな返事をしてしまう。しまった。落ち着け、まだ大丈夫だ。


「何って、上れそうかってこと」


 ノボレソーカ。その得体の知れない単語が意味の輪郭をもったとき、洸は「あー」と声を出していた。


「そういうことね……」


 ため息のような声が漏れる。やっぱり、などとはっきり言うつもりはないが、これは最初からデートなんかではなかった。そのことがわかって、思わず乾いた笑いが込み上げてくる。


 ——なんて真面目まじめなんだ。


 なんだかんだで、美鳥は真剣に魔術を教えてくれようとしている。先生からの課題とはいえ、もし本当に面倒なら適当にこなせばいいはずだ。けれど、美鳥はそうしなかった。今日も、洸のための訓練を準備してくれていた。それが少し意外で、それ以上に嬉しい。


 洸はスムーズに気持ちを切り替えることができた。


「うん、やってみよう。接点から離れるほど、渡航は難しくなるんだよね」

「ええ。私の調べた限りだと、ここはもう陽凪駅の有効圏内から出ている。難易度は相当上がっているんじゃない?」


 エレベーター理論で例えるなら、この状況はボタンを押すのが難しいということになるだろう。単純に距離が離れている分、簡単にはボタンに手が届かない位置にある。それはまるで、まだ背の低い子どもが、手の届かない高い所へ精一杯腕を伸ばすみたいに。ボタンを押すことができなければ、エレベーターは動かない。


「ちなみに、お弁当を買った理由は気づいてる?」

 そりゃもちろん。

「食べるため」

 答えると、美鳥はまるで前もって準備していたかのように息をついた。


「間違ってないけど不正解ね。これは上にモノを持っていく練習」

「ああ、『持ち込み』」

「そういうこと」


 美鳥の行動は、一貫して魔術の訓練のためだった。もしやと邪推じゃすいした自分が恥ずかしい。


「貴方が行けたら私も追うから。ま、頑張りなさい」


 そう言って、美鳥は腕を組んで道路脇のへいに背中をあずける。その姿がなんだか様になっていて、不思議と格好いい。そしてその視線の先にいるのは、もちろん洸だ。変に意識する必要はもうないが、格好悪い真似はしたくない。


「よし」


 接点以外から渡航をするのは、これが初めて。けれど、基本的にやることは同じだ。智下で感じ取れる少量の魔力を操作する。少し動かすだけではボタンに届かないので、魔力を思い切り遠くへ。同時に、狙いは正確に一点に定める。


 ——外した!


 と洸は内心で叫んだ。実際に的があるわけではないのだが、そう表現したくなる感覚だった。これをこのまま何回か続ければ、そのうち当たるか。


 洸がもう一度イメージを再開しようとしたとき、先に美鳥が口を開いた。


流石さすがにノーヒントじゃできないか。これはちょっとしたコツがいるのよ」


 それから美鳥は組んでいた腕をほどいて、右手の人差し指をこめかみに当てる。


「今、どんなイメージでやってる?」


 洸は自分の感じたことをそのまま言葉にする。


「ダーツに近いかな。ボタンが離れた所にあって、それを押そうと狙いを定めている」

「基本、魔術のイメージに完璧な正解はない。昨日はそう言ったけど、実は渡航にはそれがあるの」

「へえ、何をイメージすればいいの?」

粘土ねんど

「粘土?」


 まず思い出せるのは、あのべったりとした感触だった。と言っても最後に触ったのはずいぶん昔で、もう何年も触ってない。


「何かの形をしている粘土を、思い切り潰して平らにする。これが、渡航の正解と言われている方法ね」

「いまいちしっくりこない正解だな……」

「それは同感だわ。でも、それでできるのよ」

「じゃあ、ものは試しにってことで」


 洸は想像する。粘土が、ここにある。それは人の形をしていた。頭がひとつと、胴体から手足が2本ずつ伸びている。全体的に丸みを帯びていて、デフォルメみたいだ。


 それを、手のひらで上から押し潰す。ぐにゃりとゆがんで人形は形を変えていく。さっきまで人のように見えていたそれは、もうただの平べったくて薄い粘土だった。これを青く塗れば、池になりそうだ。よし、絵の具を取ってこよう——


涼風すずかぜくん」


 唐突に名前を呼ばれて、体がぴくりと跳ねた。イメージに集中しすぎてしまっていたせいで、少し驚いた。


「今からする質問に、正直に答えてね。私たちは今、智上と智下、どっちにいる?」

「それは——」


 智下だろう。なぜなら、まだ渡航に成功していないから。そう答えようとして、思い直す。


 ——音が、止んでいる。


 さっきまで微かに届いていた人の声や町の音が、今は聴こえなかった。それがなんだか不気味で、恐る恐る答える。


「もしかして、智上?」


 それから美鳥は静かに首を縦に動かした。

「やっぱり貴方あなた、自分が上ったことに気づいてないのね」


 まだ、魔術を発動させた感覚はなかったように思う。それとも単に、洸が鈍いだけなのだろうか。


「本当に智上なの?」

「信じられないなら、確かめてみましょう」


 美鳥は何かを探すように辺りを見回す。


「そういえば、こっちの世界についてはどれくらい知ってるの?」


 魔術については、昨日アミからいろいろ教えてもらった。けれどその中で、この智上という世界についてはあまり触れられていなかった。


「そうだね……」


 洸は自分の知識を次のように説明した。

 智上と智下は、世界の基盤ともよべる「かたち」が同じだ。世界そのものの見た目は変わらないので、見分けるには他に何か別の指標がいる。


 シンプルなのは、人の数で判断することだろう。智上は魔術師のみ立ち入ることができる場所だ。極端に人が少ない場合、そこは智上である可能性が高い。


 それからもうひとつ、目で見てわかる智上と智下の決定的な違いを洸は知っていた。


「あとは、こっちは時計が動いてないよね」

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