第19話 修練(5)

 初めて智上を訪れた日、洸は何度か時計を目にしていた。最初はただ時間がずれているだけだと思っていたが、途中からすべての時計が同じ時刻を指していることに気づいた。常識的に考えて、これはずいぶんと奇妙な事態である。


「そうね。じゃあ、それがどうしてかはわかる?」

 時計が止まっている理由? そこまでは考えていない。

「いや、まったく」


 というか、それはきちんと説明可能な事象だったのか。洸は「異世界ならそういうこともあるのかもしれない」と、なかば理解を放棄していた。


「そう。なら今は詳しい話をするのはやめておきましょう。そこまで重要ではないわ」


 洸としてはかなり気になる話だったが、ひとまず黙ることにする。


「ものすごく簡単に言うと、この世界はいつかの一瞬を切り取った姿をしている。その時計が何時だったか、覚えてる?」

「4時10分」


 何度も見たから、自然と記憶していた。

 美鳥は自身のスマホをちらりと確認してからすぐにしまう。


「ここが智下なら、今はもう17時になっているはずね。時計を探しましょうか」


 意識して時計を探すというのは、なかなか新鮮な作業だ。2人でしばらく住宅地の中を歩き回っていると、案外すぐにそれは見つかった。辺りで一際背の高いマンションの玄関口に、当たり前のように掲げられている。変わったところが何一つない、時計そのものみたいな時計だ。そして、それの指し示している時刻は、もはや見慣れた4時10分だった。


 美鳥は「ね」と確かめるように言う。


 実のところ、時計を探している途中に洸はもっと簡単な判別方法に気づいていた。視覚に頼らずとも、魔力の感覚で世界を見分けることが可能だ。洸はそれをすぐに試し、その結果、ここは智上であると推測していた。しかしそれでも、洸には渡航した自覚がなく、半信半疑の念を完全には払拭できていなかった。それが、実際に時計を確認したことで確信に変わった。


「流石に認めるしかないかな。でも僕には渡った感覚がなかったんだよ」


 「そうね……」とつぶやきながら視線を宙へ向けて、アミは自分の考えをまとめているようだった。


「渡航は成功してるわけだし、そこまで深刻な問題ではなさそうなのよね」

 美鳥はすらすらと続ける。

「イメージへの没頭も注意すべきだけど、これもよくある失敗のひとつ。経験を積んだってことなら、むしろ好都合ね」

「フォローがうまいな……」


 まるで洸の失敗をすべて良い方向に解釈し直してくれているような話しぶりに、洸は面食らった。


「全部本心よ。変に気を遣わないで」

「そっか。悪い、美鳥」

「こっちでは名字で呼ばないでって」

「……悪い、アミ」


 捉えようによってはずいぶん色っぽい台詞せりふに思えて、洸は返事が遅れた。


 美鳥編——ではなくアミというのが、彼女の智上での名前だ。「先生」のように完全に名前を隠しているわけではないのだが、アミにとって「美鳥呼び」は厳禁だという。その理屈に洸はいまいち納得していないが、本人が嫌がることを進んでする気もない。素直に智上にいる時はアミと呼び、智下にいる時は美鳥と呼ぶことにする。


「確認はできたし、栗山神社に行く?」

 洸の提案に「ええ」とアミはまっすぐうなずいた。


「そういえば、持ち込みは上手くいったわけだ」

 洸はお弁当の入ったビニール袋を掲げてみせる。


「流石と言うべきかしら。ここでつまずく人は割といるのよ」


 智上に上る際、自分の体だけでなく他のモノと一緒に移動することを持ち込みと呼ぶ。わかりやすい例は服だ。自分が着ていた服は、智上に行ってもそのまま移動する。背負った鞄も同様に、特に意識することなく持ち込むことができる。どちらも自分が身につけているものだから、体と合わせて丸ごとひとつのモノとして渡航の対象になるらしい。


 持ち込みは「そうでなければ困る」たぐいの現象なので、当たり前な出来事のように思われる。しかし、実はそう簡単な話でもない。アミによれば、新人の魔術師が渡航する際、着ている服は持ち込めても手に持ったTシャツを持ち込めない、という事例は多いという。これは渡航の際に「自分」と「手の中のTシャツ」を別物として扱っていることに原因があるとされるが、冷静に考えるとまっとうな感覚と言える。


「徒歩1時間って書いてあったけど、強化使えばすぐだよね」


 最初に確認した時は面食らったが、ここは智上だ。魔術を使えば、それくらいどうとでもなるだろう。先生なんて、一瞬で目的地へワープしてみせた。


 しかし、アミの返答は予想外の角度から返ってきた。

「貴方、強化使えるの?」


 その問いに悪意はなかったように思う。単純な疑問が、口からそのまま発せられただけだ。


「自分で使ったことはないけど」

 迂遠うえんな答え方しかできない洸に対し、アミは「そうよね」とつぶやいた。どうやら、魔術は使わずに向かうらしい。


「向こうに着いてもやることは同じよ。なら、ゆっくり歩いて行ってもいいじゃない?」

「お弁当が冷めちゃうけど」

「それは温めればいいだけでしょう?」

「あ、そうか」


 つまり「温め魔術」のようなものがあれば、好きな時に好きなだけお弁当を温めることができるのかもしれない。魔術は当然、智上の生活シーンに影響を与える。なかなか興味深い話題だ。


「実際に魔術を使いながら進むことも考えると、2時間くらいで神社まで行ければ合格かしら」

「なるほど」


 目標があるのはわかりやすくて良い。洸は堂々と答える。


「昨日で知識は身につけた。ここからは、僕の腕の見せ所だ」


 実のところ、洸には自分なら魔術が上手く使えるのではないかという自信があった。試験では直行という希少な技術をいきなり成功させ、先生にも才能を認められている。さらに、天然の魔術師には優れた人物が多いという話もある。要素だけを見れば、可能性としては十分すぎる。


 ——さあ、早く。


 どんな魔術でもいい。さっさと身につけて、世界の常識をひっくり返してみたい。

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