第9話 始動(1)

 *2*


 自分でも気づかないうちに智上に行ってしまっていた次の日。休日にもかかわらず、こうは早起きをした。適当に朝食を済ませて身支度みじたくを整える。その間ずっと、魔術について考えていた。というよりも、昨日からずっと魔術のことが頭から離れなかった。


 とにもかくにも、魔術という技術についてもっと知りたい。こちらの世界ではありえないことも、魔術ならば実現しうる。雪枝や本多の技術がどの程度のものかはわからないが、魔術による身体能力の向上や疲労回復には目を見張るものがあった。それが単純に、魅力的だ。魔力が本当に万能エネルギーなら、他にも様々な活用の仕方があるだろう。洸の目標を実現させるために、魔術は間違いなく役に立つ。


 玄関の鍵を閉めたことを目視で確認してから、内廊下を歩き、エレベーターに乗る。いま洸が住んでいるのは、高校生のバイト代では到底払えないくらいの家賃がかかるマンションの一室だった。当然ながら自分で家賃を払っているわけではないので、このことはできるだけ他人には話さないようにしている。立地は陽凪西ひなぎにし高校まで徒歩20分、最寄りの駅までは15分と、まずまずである。


 外は土曜の朝ということもあって、どこか緩やかな空気が漂っていた。普段は寝てばかりで知らなかったが、洸の求める世界のひとかけらがそこにはあった。


 そうして最寄り駅から電車に乗り、洸は陽凪駅へ向かった。


 *


 陽凪駅までは乗り換えなしの1本で行くことができる。およそ10分ほどで到着して、時刻は9時半を回った。


 駅前の広場に掲げられた時計を確認する。昨日、智上から帰ってきた時にも見た時計だ。それは当たり前に、スマホの表示と同じ時間を示している。さて、ここからどうするか。


 雪枝ゆきえだの話の通りなら、ここで「渡航とこう」を使えば、智上に行くことができる。洸は昨日智上で自分が使った魔術を思い出す。世界を渡る、超常的なあの感覚。あれをもう一度、ここで再現する必要がある。


 まずは魔力の操作だ。感覚を研ぎ澄ませようと意識を集中させて、すぐに奇妙な事態に気づいた。


 ——魔力が、ある。


 魔力は智上世界にあるもので、この智下世界には存在しないのではなかったか。しかし、と洸はすぐに思い直す。もし智下世界に魔力がなかった場合、それでどうやって智上に上るのだろうか。同じ形をした2つの世界は、渡航という魔術によって繋がっている。なら、行き来をするためにはどちらの世界からでも魔術を使える必要がある。


 この推測が正しければ、智下にも魔力があるのはおかしなことではない。むしろ、ないと困るとさえ言える。智下にも魔力があるという事実。これが意味するところは大きいように思えた。


 とはいえ、智上と智下では、感じ取れる魔力の量に大きな差があることにも洸は気づいていた。こちらの魔力は、上に比べるとずいぶん少ない。向こうでは湯水のごといていたのに、ここはぽつぽつと垂れてくる雨漏あまもり程しかなかった。


 魔術を使うためには大量の魔力がいる。洸はその一滴一滴を逃さず集めようと意識をらした。落ちていく水滴をバケツで受け止めるみたいに、魔力の粒を少しずつ地道に貯める。そうして気の遠くなるような時間が経ち、バケツ三分の一くらいの魔力が貯まったところで、ふと我に返った。


「無理だ……」


 脱力しながら時計を確認すると、すでに1時間以上が経過していた。洸の感覚では、昨日はこのバケツ3杯分以上の魔力が最初からあった。もし同じように渡航を使おうと思ったら、日が暮れるまでこの作業を続けることになる。さすがに非効率的すぎてやっていられない。


 それで、洸は1つの仮説に行き着いた。もしかすると雪枝と本多は、智上世界や魔術のことを全て正確に伝えたわけではなかったのではないか。2人の目標は洸を智下に帰すことだった。そして洸は、たまたま事故で智上に行ってしまった名誉一般人だ。魔術師の素養があるらしいとはいえ、あの場で丁寧に智上に行く方法まで教える必要はなかったように思う。


 であれば、洸は智下から智上に行く方法を厳密には知らないということになる。しかし、そう簡単には諦められない。


 魔術師と呼ばれる人たちは、この移動を当然のように行なっているという。そして洸は、ほとんど事故とはいえ向こうに行き、そこから自力で帰ってくることができた「にわか魔術師」でもある。できる可能性は、ゼロじゃない。


 ひとまず、洸は思い付く限りのことを試してみることにした。大事なのはそう、変化のイメージだ。ひとつ、目をつぶったまま心の中で「渡航!」と叫び、目を開ける。失敗。ふたつ、「渡航渡航渡航」と念じながら、陽凪駅を一周する。失敗。みっつ、「オレは世界を渡る魔術師だ!」と自分に言い聞かせてジャンプする。失敗。そろそろ恥ずかしくなってきた。


「やっぱ無理だ……」


 スマートフォンを取り出す。画面を見て、時刻を確認した。もう13時に近い。お腹が空いた。


 適当なカフェで一度休憩しよう。そう考えて、スマートフォンをポケットにしまう。顔を上げると、視界から人の姿がすっかり消えていた。なぜか一瞬のうちに、世界は切り変わっていた。


「んぬぁ……⁉」


 思わず変な声が出た。


「どうした、きみ」


 直後、背後から声をかけられた。驚きのあまり、またしても奇声を発してしまいそうになる。なんとか堪えて振り返ると、かなり背の高い大男がいる。


「そうビビんなって。俺は通りすがりの、ただの先生せんせいだよ」

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