第16話 修練(2)

 驚きのあまり、まるで呼吸が止まったみたいに頭の中が空っぽになった。まさか、石黒は魔術や智上ちじょう世界のことを知っているのか? なんとか平然をよそおって、答える。


「違うけど、なんで?」

「いや。ならいいんだ。ひとつ言っておくなら、授業はもう少し真面目に受けた方がいいんじゃない?」


 そう言うと、石黒は洸より先に教室を去っていった。察するに、授業中の美鳥とのやりとりを見ていたのだろう。気恥ずかしい気持ちもあるが、洸はそれ以上に安心感を覚えていた。


 ——さすがに、ね。


 かの石黒といえど、さすがに別世界の出来事まで知ることは不可能だったようだ。


 石黒悠理には「看取かんしゅの魔女」という奇妙なあだ名がある。誰がいつ言い始めたのか、詳しいこと知るのは石黒本人以外にはいない。最も有力なのは、石黒が中学生だった頃からすでにそう呼ばれており、そのとき同級生だった人物から広まったとする説だ。


 ともかく、石黒はそのあだ名の通り、恐ろしいほど観察力にけている。その上、見聞きしたことをかなり正確に記憶することもできる。人や物の些細ささいな変化にすぐ気づくし、誰かが悪事を働こうものなら、それを見事に看破してみせる。


 そんな、物語の探偵役じみた能力を持つ石黒にも、わからないことはあった。そのことがわかって、洸は安心した。石黒はかもし出す雰囲気こそ異世界人レベルだが、その中身までフィクションでできてはいなかった。現実の大地の上に生きる、れっきとした一般人だ。


 ——でも、そう考えると。


 洸自身も含めた、智上というもうひとつの世界の存在を知る魔術師たち。彼らは全員、およそ一般的でない人間ということになるのだろうか? 常識的に考えれば、その答えは明白なように思えた。


 *


 美鳥との約束は、16時半に栗山くりやま神社、ということで決まっていた。魔術の訓練をするのだから、場所はもちろん智下ではなく智上の方だ。この段取りに、不備などまったくない。


 さて、洸は今、智下の陽凪ひなぎ駅にいる。そして、時刻はすでに16時半をいくらか過ぎていた。端的に言って、遅刻である。どうしてこんなことになったのか、原因は明らかだ。


 ——渡航とこうって、結局どうやるんだ?


 2度、智上に行ってしまったことがあるだけで、洸はまだ自分の意思での「上り」に成功したことはない。そのことを、完全に失念していた。思えばあの手紙のやりとりをした時に気づいてもよかったものだが、悲しいかな、これが現実だった。


 渡航もできないのに魔術師気取りだなんて美鳥に知られたら、盛大にあきれられるに違いない。そしてその瞬間は、刻一刻と迫っているように思われた。


 美鳥との連絡手段はないので、洸はここで彼女が来るのを待つことにする。ここは接点せってんと呼ばれる特殊な場所だ。そのことを美鳥が知っているかはわからないが、他に洸がとれる選択肢はない。


 そうして、それから1時間もしないうちに美鳥は陽凪駅に現れた。洸が事情を説明しようとするより早く、彼女が鋭く言い放つ。


「貴方、こんなところで何やってるの?」


 正直に理由を答えるつもりが、なぜか嫌味な言い方をしてしまう。


「たぶんだけど、美鳥の想像通りだね」

「呆れた。それじゃ今までどうやって上に行ってたの?」

「いつの間にかに、かな……」


 心の中で、自尊心がばらばらと崩れていく音がする。もうこの際だ、余計なプライドは捨ててしまおう。洸は開き直ることにした。


「まあいいわ。なら、最初の課題はそれね」

「一応、降りるときは上手くいったんだよ」


 実際、一昨日おとといも智上から帰るときは陽凪駅からこっちに戻ってきたのだ。


「それは別に変なことじゃないわよ。上るのと下りるので、私も感覚は少し違うから」

「そうなんだ」

「それで、何ができないの?」

「一番の問題は魔力かな」


 智上にいるときと智下にいるときでは、あまりにも状況が違いすぎる。そもそも、智下で本当に魔術は使えるのだろうか。


「渡るのに魔力の量は重要じゃないわ。というか、ほとんど要らないと言ってもいい」


 魔術を使うのに魔力が必要ないとはどういうことだ? わからない、という顔をしていたのが美鳥にも伝わったのだろう。さらりと解説を加えてくる。


「まず、渡航は大した魔術ではない、と考えましょう。たとえるなら、そうね。エレベーターみたいなものかしら」


 なんだか面白そうな話になった。


「エレベーターに乗って、ボタンを押す。これは子どもできるくらい簡単なことでしょう。でもそれだけで、後は自動で選んだ階まで運んでくれる。その、エレベーターのボタンを押すまでが渡航ね。わかる?」


 わかったような、わからないような。つまり、と洸は自分の考えを口にしながら整理する。


「少ない労力で、世界を移動することは十分可能だ、ってこと?」

「そう。私たちがするのは魔力の簡単な操作だけ。あとはエレベーターに乗るみたいに、半分自動で魔術が実行される」


 当然と言えば当然だが、渡航という魔術の詳しい仕組みについてなんて知らなかった。それとも普通の魔術師なら、これくらい知っていて当たり前なのだろうか。


「じゃ、早速やってみましょう」


 洸はうなずいて、もう一度意識を集中する。


 魔力を集める必要はない。大切なのは、変化のイメージとエレベーターのボタンだ。そして、ボタンを押すことは難しくない。それはすぐ目の前にあった。魔力がやさしくボタンに触れる。そうして、エレベーターは動き出す。


「あ、できた」

 洸は智上世界にいた。成功だ。


 美鳥もすぐに上ってきて、満足げにうなずく。

「問題なさそうね」


 これでやっと、魔術師としてのスタートラインに立てたような気がする。あとは特訓あるのみ、なのだが。


「今から栗山神社行く?」


 既に予定よりもだいぶ時間が遅れている。美鳥に身体強化を使ってもらえばそこまでかからないとはいえ、接点からしか渡航できない洸にしてみると、二度手間感が否めなかった。


「時間がもったいないし、やめておきましょう。これからのこととか、学校ではどうするかとか、そういうことだけ決めて今日はおしまいね」


 そうして、美鳥との特訓初日は終わった。

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