第3話 邂逅(2)

 異世界――あまりにもおかしなことは承知であえてそう呼ぶことにする――と思われるこの世界をしばらく歩いてみて、わかったことがいくつかある。


 まず、人がいない。とにかく学校周辺を歩き続けてみたものの、どこに行っても人の姿を目にすることはなかった。にもかかわらず、人の痕跡を感じさせるものが時々みつかる。それはたとえば、公園の砂場に山ができていたり、コンビニに陳列されているおにぎりが最前列のものだけなくなっていたり、という具合に。


 それから、この異世界の見た目は現実世界——などと呼びたくはないが、適切な表現方法が思いつかない——とほぼ同じである。異世界というともっと外国風というか、異なる文明の世界をイメージする。しかしここはそうではない。現実の街からまるごと人だけ消えた、という説明が一番しっくりくる。


 本当に異世界なのかすら怪しいくらい、この世界は現実そのものだった。こうは街の景色を完璧に記憶しているわけではない。しかし、今のところどこにも違いが見当たらなかった。学校内の建物の造りから、道路の敷かれ方、駅前の人気なパン屋がノワールで、洸の通う高校が陽凪西ひなぎにし高等学校という名前なのも同じである。


 スマートフォンを確認する。しかし不思議なことに、この異世界と現実世界との間には明確なずれもあるらしい。この世界の空は朝とも夜ともつかないような、薄い灰色をしている。気温は寒くも暑くもないが、広い世界にただ一人という孤独感が身をこわばらせた。ちなみにこの世界ではスマートフォン自体は使えるものの、電話は繋がらないみたいだ。


 果たしてこの異世界から現実に帰ることはできるのだろうか。洸は今さらのように不安を覚えた。かれこれ3時間以上歩き続けて、もうかなり疲れている。しかし唐突に、洸の耳は確かに人の声を拾った。


接続せつぞく


 それは女の声だった。見ると、そうつぶやいたらしい人物がいる。ここからだと少し遠い。それにしても、今の言葉はなんだ。


「いい加減諦めたら? 貴方では私に勝てないと思うけど」


 そこにいたのは全部で2人だった。子どもなのか大人なのかよくわからない長髪の女と、いかつい頭をした丸みのある男。陽凪西高校から少し離れて奥まった地点の、細い一方通行の交差点に2人はいた。地面に座り込む男を女が見下ろすかたちで、なにか話をしている。男の方は何かにかれたように傷だらけで、手には辞書みたいに分厚い本を持っていた。


「確かにあんたは強い。さては、噂の女荒らしか?」

「判断はご自由に。でもやっぱり、この辺りの魔術師まじゅつしなんてたかが知れてるわね。それで、そろそろ質問に答えてもらっていい? 先生って人はどこにいるの?」

「わかった、教える。つっても俺も全部は知らねえよ。確かそいつは……」


 聴こえた会話の意味がわからなくて、この異世界に来てから初めて人を見つけた感動は一瞬にしてなくなっていた。内容はつかめないが、どうも剣呑けんのんな雰囲気であることは察せる。そして今や、推測は確信となった。やはりここは、洸の知る現実ではない。


 2人の様子がよく確認できるところまで近づき、建物の陰に潜む。そのままいくらかやりとりを続けて、話はついたようだった。


「情報提供ありがとう、と言っておきましょうか。それじゃ」


 女はその場を立ち去った。丸い男はその場に座ったままだ。それからわざとらしくため息をついて、ひとりでぶつぶつと話し出す。


「あいつが噂の荒らしで間違いねえ。これはとにかく報告だ」


 男は辞書みたいな本に手をかざした。


「こちら田原たはら。陽凪の住宅街で怪しい女に遭遇しました。おそらく例の荒らしです。軽くやった感じですが、かなり強いです。見た目は——」


 これは、誰かと通信している? するとあれはおそらく、ただの本ではないだろう。それからさっき耳にした、日常生活からあまりにも乖離かいりした言葉がよみがえる。


 魔術師。

 確かにあの女はそう口にしていた。それと何か関係があるのか。


「——以上です」


 通信を終えて、田原という名前の男が立ち上がった。どうやらここから移動するようだ。


 どうする。田原なら、この世界について何か知っているかもしれない。とはいえ、洸には田原とあまり関わりたくない明確な理由があった。彼は、なかなかに怖い顔をしている。きっと平和的な人物ではない。


 心の中で行くか行かぬかの問答を繰り返し、半径1メートルの範囲で挙動不審する。すると幸か不幸か、向こうがこちらに歩いて来る。ええい、ままよ。洸は意を決して田原に話しかけた。


「あのーすみません。ここってどこですか? あいや、陽凪なのは分かるんですけど、なんか雰囲気違うなーみたいな」


 洸の発した声は自分が思っているよりも早口で、それ以上に震えていた。相手はどんな反応をするだろうか。平和的な対応を望む。


「ん、なんだ兄ちゃん、こっちはまだ不慣れか? なら、俺がいろいろ教えてやるぜ」


 見た目とは裏腹に田原はフレンドリーだった。もしかすると、そんなに悪い人ではないのかもしれない。


「助かります。さっきのちょっと見てたんですけど、あれ何ですか? 誰かと話してましたよね。あれって——」


 言い終える前に、洸の体が揺れた。束の間の浮遊感。それから息もつかないうちに、強い衝撃。


 洸は道路と住宅の間に建てられた、コンクリートの塀に激突していた。田原に投げ飛ばされたのだと理解するまでに、なぜだか時間がかかった。頭がくらくらする。思考が安定しない。


「なんだお前、新手の荒らし——いや、狩猟者しゅりょうしゃか?」


 地面に倒れたまま、痛みのノイズが激しい頭でなんとか考えをめぐらせる。


 ――さっきから言ってる荒らしって何だ。新手ってどういう意味だ。痛い。狩猟者? 何もわからない。


 座りこむような体勢にまで持ち直して、洸は口元に手を当てた。血の味がしたのだ。壁に衝突した時に口の中を切ってしまったらしい。ねっとりとした血の味が気持ち悪さを増幅させた。全身を強く打ったように思うが、特に頭と背中の痛みがひどい。


「素人ぶって情報を得ようっていう腹づもりだったんだろうが、悪いな。お前が素人じゃないことくらい、俺にはわかるぜ」


 ようやく立ち上がれはしたものの、ふらついてどうしようもない。こんな状態ではこの男から逃げられない。


 田原はゆっくりとこちらに近づいてくる。その左手に持つ本は、風に吹かれてぱらぱらとページがめくられ、ふいに途中で止まった。淡い光を放つように見える田原の右の手のひらが、その開いたページにあてられる。それから短く、こう呟いた。


強奪ごうだつ


 田原の右手が、洸の頭に向けて伸ばされる。


「ま、こいつを試すいい機会だ」


 もう少しで、彼の手が触れる。


 その時だった。


「接続――強化、連装れんそう


 空から降ってきたもうひとりの人物が、田原を思い切り蹴り飛ばした。

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