第53話 黄金の鍵


 ふたりの結婚式は一週間後に迫っている。


 ――振り返ってみれば、とにかく慌ただしい数か月間だった。ビッセル伯爵の夜会で起きた出来事が一番ショッキングではあったけれど、その後も別の意味で刺激的な日々ではあった。


 リアムは好意をちっとも隠さなくなった。彼からはもう何百回――いえ、何千回――いえいえ、もっとかも? 何万回『可愛い』と言われたか分からない。もうミドルネームを『クロエ』から『可愛い』に改名したほうがいいんじゃないかという勢いだ。


 昼下がり、ふたりは執務室で休憩していた。


 少し行儀は悪いが、マホガニーの彼のデスクに並んで寄りかかり、雑談を始める。


「この時間がずっと続くといいのに」


 オリヴィアが笑みを浮かべてそう呟きを漏らすと、彼が眉根を寄せてこちらを見つめてきた。


「……冗談だろう? 結婚式まで一週間もあるのか、気が遠くなる、と僕は絶望を覚えているのに」


「一週間『も』ある、ですって? 全然足りないわ、もう一週間『しか』ないのよ」


「僕は早く結婚したい」


「でも」


「でもじゃない」


「だけど」


「だけどじゃない」


「とはいえ」


「……ねぇ、オリヴィア」


 リアムの顔は困り果てていた。拗ねているようでもあり、甘えているようでもある。普段は落ち着いている彼が、オリヴィアにだけ見せるこの表情が、たまらなく可愛いと思う。


「なぁに?」


「君は僕と早く結婚したくないの?」


「だって……式が終わったら、クラリッサが帰ってしまうから」


「ああ、そうか……そうだね」


 クラリッサはセントクレア公爵家にすっかり馴染んでいる。庭師のガス老人とすっかり仲良くなったクラリッサは、奇妙なハンドサインを彼に教え込み、独特なコミュニケーションを取っているようだ。……そのうちに厳格な執事のハーバートからお叱りを受けるのではないかと、オリヴィアはちょっとだけヒヤヒヤしている。


「明後日、父と義理の母もこちらに到着する予定でしょう? ……なんだか憂鬱」


「君は未来のセントクレア公爵夫人だ。堂々としていればいい」


「うーん……」


 全然自信がない。


「少し嫌味な物言いも勉強しておいたら? ワイズ伯爵夫人と互角に渡り合うために」


「たとえば?」


「じゃあ言ってみて――『リアム、あなたってお馬鹿さんね』」


「ええ? 本当に言うの?」


 オリヴィアは噴き出してしまう。


「ほら、いいから」


「リアム、あなたってお馬鹿さんね。……私、あなたをいじめたくなっちゃうわ」


「どうやって?」


「考え中」


 オリヴィアはニコニコしているし、リアムも悪戯な笑みを浮かべていた。


「こういうのはどう? ――僕の顎にキスするんだ」


「どうして?」


「君はどうして唇にしてくれないんだろうと、僕を悔しがらせることができる」


 ふたりは笑みを漏らし、そっと顔を近づける。彼の唇がオリヴィアの唇に優しく触れた。


「……おかしいな。いつもは必ずクラリッサの邪魔が入るのに」


「彼女、午後からは薔薇園の手入れを手伝うと言っていたわ」


「それを早く言ってくれ」


 リアムがもう一度オリヴィアにキスをした。


 ふたりは至近距離で見つめ合い、幸せな気持ちで笑みを交わした。


 オリヴィアは彼の肩に頭を載せ、手を繋いだ状態でしばらくぼんやりしていた。


 リアムがポツリと呟きを漏らす。


「ゆうべ、兄の夢を見た。彼は僕の結婚をすごく喜んでくれた」


「きっと天国で見守ってくださっているのね」


「それがね」リアムが少し呆れたように眉根を寄せる。「彼が面会に指定してきた場所が、港町の普通のカフェだったんだ」


「カフェ? もっとこう――花の咲き乱れる丘とか」


「違う、雑多なカフェだった。それで彼が勧めるお茶を飲んだら、ものすごくまずくて。微妙な顔で兄を見返すと、彼は悪戯が成功した子供みたいに、してやったりの顔をして笑っていた。『ものすごくまずいだろう? 僕はお前のその顔が見たかったんだ』と言って」


「なんだかすごくリアルね」


「そうなんだ。彼はいつもどおり、何も変わらなかった。僕たちは色々な話をした――彼はオリヴィアのことを根掘り葉掘り聞きたがった。僕が正直に大好きだと話すと、すごく幸せそうに微笑んでいた。――それでこちらが『マシューはどうしているの?』と尋ねると、彼は『サーモンの新しい料理方法を研究している』とか、ふざけた答えばかり返してきて」


「天国にサーモンてあるのかしら?」


「さぁ……どうだろう、あったとしても問題だよね? だって心根の綺麗なサーモンが亡くなったあとたくさん天国に行っているだろうから、それを捕まえて食べたら可哀想だ」


「確かに可哀想」


「兄は馬車の事故で亡くなったんだが、遺体をこの目で確認していないから、あんな奇妙な夢を見たのかな。……まるでまだ生きているみたいな気がして」


 オリヴィアは彼に寄りかかっていた体勢から身を起こした。案ずるようにリアムを見つめると、彼が口元に綺麗な笑みを浮かべてみせる。表情は穏やかであるけれど、瞳には悲しみが宿っていた。


「兄は恋人と一緒に馬車に乗っていて、崖から転落したんだ。かなり高いところから落ちたから、馬車は粉々に砕けていたそうだ。近くには大きな川が流れていて――もう少しずれていれば、もしかしたら助かったかも。事故に遭ったのは、イーデンス帝国の南東の外れで、ここから馬車で半月もかかる場所だった。僕が駆けつけた時には遺体は火葬されたあとで、遺骨は川に撒いたと説明を受けた。現地の人から手渡されたのは、マシューが身に着けていた上着と壊れた懐中時計だけ――あとは破損がひどくて処分したそうだ」


 何かを思い出そうとしているのか、リアムが瞳を細める。彼はなんだかぼんやりした様子で言葉を続けた。


「この執務室はマシューが使っていた。だから時々、すごく変な気持ちになるんだ……彼を近くに感じる」


 リアムは何かを探しているようだった。――今の位置から見て右側――西壁面にある埋め込み式の書棚のほうを見つめている。


 オリヴィアは戸惑いを覚えた。


「リアムさん?」


「――次の扉を開く鍵――……」


 彼のアメジストのような瞳がこちらに向いた。そこには煌めくような光があり、まるで熱に浮かされているかのようだった。


「ああ、どうして忘れていたんだろう――この執務室、元々は西壁に埋め込み式の書棚はなかった。当時僕は、十歳かそこらだったか――マシューからこんなことを言われた――『貴族社会で生きるコツを教えてあげよう。誰かを好きになりすぎないことだ。そのほうが関係は長持ちする』――今思うとマシューはその時、信頼していた誰かに裏切られるという経験をしたのかもしれない。彼らしくない後ろ向きな台詞だった。まだ子供だった僕には彼の真意が分からなくて、『マシューが僕のことを好きになりすぎなければ、関係が長持ちする』と考えた。それで夜のあいだにこの執務室に忍び込んで、あの西壁に落書きをしたんだ――『マシューが僕を少し嫌いになりますように。ずっとそばにいてくれますように』と。その後しばらくして、あの埋め込み式の書棚が設置された」


 リアムがデスクから体を放した。彼が書棚のほうに向かったため、オリヴィアも付いていった。


 彼が床に腰を下ろす。オリヴィアも彼と並んで腰を下ろした。


「当時の僕はここにこうしてあぐらをかいて、例の落書きをした。高さは――このくらい」


 リアムは下から二段目の棚に並べてあった革表紙の本を一冊手に取り、それを床の上に置いた。そして隣の本を掴むと、一冊目と同じようにする。オリヴィアもその作業を手伝った。


「僕は何度か見たんだ――兄のマシューがここに膝をついている場面を。床の上には数冊の本が重ねて置かれていて、彼はそれを棚に戻していた。――一体、何をしていたんだ? 本が必要なら、一冊だけ抜き出せばいい」


 本を十冊ほど抜き出してしまうと、棚の背面がよく見えるようになった。その左下に奇妙な切れ込みが見つかる。それは数センチほどの大きさで、斜めにカットされていた。リアムは穴に指を引っかけ、背面の板をそのまま引っ張り出した。


 板を取り払うと、奥の壁紙に書かれた落書きが現れた。子供らしい気取りのない文字でこう書かれている――『マシューが僕を少し嫌いになりますように。ずっとそばにいてくれますように』――


 ふたりは顔を見合わせた。マシューはこれを消さずに大事に取っておいたのだ。幼い弟からの、不器用な愛のメッセージを。


 ――ところで、棚の背板があった場所と、奥の壁面のあいだには少し隙間が空いているようだ。


 改めて確認してみると、埋め込み式書棚の上部に見える壁は、落書きが書かれている本来の壁面の位置よりも、だいぶこちら側に張り出しているようである。兄のマシューは新しい壁の位置をわざわざ内側にスライドさせて、奥に隠しスペースを作ったらしかった。


 リアムは身を乗り出し、右手を下の方に差し入れた。――カタリ、という微かな物音。


「何かある」


 彼は指先に当たったものを掴み、それを引っ張り出した。出てきたのは木箱だった。


「これだ、僕が昔マシューに見せてもらった箱は」


「マシューさんが金色の鍵を隠していた箱?」


 オリヴィアは以前リアムから聞いた話を思い出しながら尋ねた。


 ――マシューにとってはおまじないみたいなもので、精神安定のために金色の鍵を持っていた。――『次の扉を開く鍵』――彼はそう言っていたそうだ。最終的に逃げ道があると思い込むことで、日常でちょっと嫌なことがあっても、『これは次の扉を開けるまでの、ただの暇つぶし』と割り切れる。


 リアムは一度だけ現物を見せてもらったことがあり、それは古い木の道具箱に入れられていた。リアムが兄に『いつもどこに置いているの?』と尋ねると、『内緒。――とっておきの場所に隠してある』とマシューは答えたらしい。


 リアムは感慨深げに木箱を見おろし、口を開いた。


「彼は普段、ゴールドの鍵を持ち歩いておらず、隠して保管していた。だから例の鍵はまだここにあるはずだ」


 慎重な手つきでリアムが蓋を開ける。


 ――中は空だった。


 それを眺めおろしたリアムの口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。


「……やられた。マシューは生きている」



   * * *


 夜、三話同時更新します。

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